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《コナン・ザ・コナン》ロバート・E・ハワードの世界
“蛮勇コナン生みの親”
ロバート・E・ハワード人物像


■ハワード年譜■

1906年
1月24日、テキサス州ピースターに生まれる。
1915年
ハワード家、テキサス州クロスプレインに移る。
初めての小説を執筆。
1921年
初めて商業誌(アドベンチャー誌)に原稿を送るも、掲載を断わられる。
1923年
ブラウンウッド高校卒業。
"The Sea"が地方新聞に掲載。
ウィアード・テールズ誌、創刊。
1924年
初めて商業誌(ウィアード・テールズ誌)に作品が売れる。
"Spear and Fang","The Hyena"
ハワード・ペイン大学に入学し、タイピングと速記を専攻。
1925年
速記者、個人秘書、石油関係の新聞記者などの職に就く。
デビュー作"Spear and Fang"がウィアード・テールズ誌に掲載さる。
1926年
ハワード・ペイン大学アカデミーで簿記を学ぶ。
1928年
速記、タイピング、ビジネス計算学、商業法を専攻。
1929年
ウィアード・テールズ誌の常連作家となり、作家としての成功を収める。
ウィアード・テールズ誌以外にも、アゴーシー・オールストーリー誌、ファイト・ストーリーズ等へも活躍の場を広げ始める。
1930年
H・P・ラヴクラフトとの親交が始まる。
1932年
コナン・シリーズ第一作"The Phoenix on the Sword"「不死鳥の剣」がウィアード・テールズ誌12月号に掲載。
1935年
母親が病気がちになる。
1936年
6月、母親が危篤に陥る。
6月11日、ハワード、ピストル自殺。享年30歳。

■ハワードの生い立ち■

 コナン生みの親ロバート・アーヴィン・ハワード(Robert Ervin Howard)は、二十世紀の初めに生を受け、30歳というその短い生涯のうちに多くの作品を残したアメリカのパルプ雑誌作家である。

 1906年1月24日、開業医の父アイザック・M・ハワード(Dr. Isaac Mordecai Howard)、母ヘスター・E・ハワード(Hester Ervin Howard)の長男として、ハワードはテキサス州の田舎町ピースターに生を受けた。「ロバート・アーヴィン」の名は、曾祖父の名である。ハワード9歳の頃、一家は同州クロスプレインズに引っ越し、ハワードは以後の生涯をその地で過ごした。両親ともに、西部開拓者の家系である。

 地元の小・中学校を経て、ブラウンウッド高校に進む。ハワードが同高校を卒業した1923年には、のちに常連作家となるウィアード・テールズ誌が創刊されている。ときにハワード17歳。少年の頃のハワードは、早熟ながらひ弱な少年で、仲間たちからいじめに近い仕打ちを受けたという。読書が好きで内向的なハワードにとって、テキサスという土地の開放的な気風は必ずしも居心地の良いものではなかったようだ。しかし、いじめに反発したハワードは、ボクシング、乗馬、ボディビルに打ち込んだ結果、まるで自分の小説に登場するヒーローさながら、身長6フィート、体重200ポンドを越える筋肉質な逞しい青年へと成長していた。そんなハワードを、近しい友人たちは“二丁拳銃のボブ Two-Gun Bob”の愛称で呼んでいた。

 高校卒業の翌年、ハワード・ペイン大学に進んだハワードは、タイピングと速記を専攻。大学で学ぶかたわら、速記者、個人秘書、石油関係の新聞記者などの職に就いている。更にハワード・ペイン大学アカデミーで簿記を学んだのち、1928〜1929年頃より本格的な作家活動に入った。

 その性格は、内向的でいて、同時に自由奔放、気難しく起伏の激しい感情の持ち主だった。若い頃から熱心な読書家で、そこから得た膨大な知識がのちの作品にも大いに生かされている。特にハワードのお気に入りだったのは、北欧をはじめとする歴史や戦国史だった。

 1935年頃、母親が病気がちとなる。癌であった。一人っ子だったせいもあり母親の深い愛情を受けて育ったハワードにとって、これは耐え難いことだった。不安定な精神状態に陥ったハワードは、友人たちにたびたび自殺をほのめかすようになっていた。そして翌1936年6月、母親が危篤状態となったとき、ついに苦痛に耐え切れなくなったハワードは自宅の車の中でピストル自殺、この世を去る。ときに6月11日、享年30歳。母親は息子の死を知ることもなく、そのあとを追うようにして間もなく息を引き取ったのである。

 遺書がわりに彼のタイプライターが打ち出していたのは、アーネスト・ダウソンの詩の一節であった――

All fled -- all done, so lift me on the pyre --
The Feast is over and the lamps expire.

すべては去りぬ――すべては終わりぬ
それゆえに われを葬火の上にかかげよ
響宴(うたげ)の席に人なく
また灯(ともしび)は消ゆ――
       (団 精二 訳)

 ところで、異常とも思えるほど母親思いだったハワードのことを、いわゆる“マザコン”であり、恋愛には無関心だったという声もかつてはあった。しかし、さすがにこれは極端な説であり、今では、二十代後半のハワードは普通に恋を経験していたことが知られている。その体験を描いた映画"The Whole Wide World"「草の上の月」が1997年に公開されている。この映画は、実際にハワードと親しかった女性ノベリン・プライス・エリス晩年の回想録 "One Who Walked Alone" が原作である。

■作家としてのハワード■

 ハワードが初めて小説なるものを執筆したのは、彼の一家がクロスプレインに引っ越した9歳の頃だったという。1921年、15歳の頃には早くも将来は小説家となることを心に決め、作品執筆に没頭していった。初めて自分の作品を商業誌(アドベンチャー誌)に投稿したのもこの頃だった。その後も愛読していたアドベンチャー誌、アゴーシイ誌、ブルーブック誌といった雑誌に作品を送り続けたものの、ことごとく没にされている。この当時のハワードの作品は、純粋な冒険小説がほとんどであった。

 だが1923年、ハワード17歳のとき、彼の人生を運命づける一つの雑誌が創刊された――伝説的なパルプ雑誌ウィアード・テールズ誌(以後WT誌)である。その翌年、"Spear and Fang""The Hyena"の二編が同誌に採用され、まず"Spear and Fang"がWT誌1925年7月号に掲載された。これがハワードのデビュー作である。ときにハワード19歳。

 以後はWT誌を中心に、徐々に活動の場を広げ、人気作家としての地位を確立してゆく。特に注目を浴びたのが、WT誌1928年8月号に掲載された初のヒーロー物、ソロモン・ケイン・シリーズ第一作"Red Shadows"「赤き影」(本HPであらすじ紹介)であった。この1928〜1929年頃になると、ハワードはいよいよ作家として十分な収入を得るに至った。代表作となったコナン・シリーズの第一作"The Phoenix on the Sword"「不死鳥の剣」が掲載されたのは、WT誌1932年12月号のことである。彼の多ジャンルに及ぶ精力的な執筆活動は、1936年6月に自殺する直前まで続けられていた。

 WT誌への作品発表を通じて、ハワードは同じく同誌の常連作家であったH・P・ラヴクラフトやクラーク・アシュトン・スミスたちとの親好を深めた。とはいっても、遠く隔てた地域に住んでいた彼らの交流は、もっぱら文通によるものだった。残された手紙のいくつかは、彼らの死後に公開されている。特にラヴクラフトのことは兄のように慕い、ラヴクラフトが創造したクトゥルー神話大系に沿った作品も少なからず残したハワードだった。この三人こそは“WT誌の巨人たち”であり、ラヴクラフトは弟分であるハワードの早すぎる死に深く悲しんだ。

 ハワード作品発表の中心となったのが上記のWT誌であることは、あらためて言うまでもない。だがハワードが残した作品は、コナンをはじめとするヒロイック・ファンタジーや、クトゥルー神話作品に代表される幻想怪奇小説ばかりではない。さまざまなパルプ雑誌を舞台に、冒険小説、ハードボイルド探偵小説、歴史冒険小説、西部劇小説、冒険SF、ボクシング小説、ドタバタ喜劇小説などなど、実に多くのジャンルの作品を残しているのだ。もともとハワードが志していたのは、冒険小説や歴史小説の作家であった。WT誌で培った名声を武器に、晴れて念願のジャンルに作品を発表する機会を得たのである。それに加え、膨大な数の幻想詩までハワードは残している。

 死後に発見・発表された未完作品も含めれば、ハワードが残した小説の数は400編になんなんとする。ハワードの作家生活が10年ちょっとという短期間であったと知れば、その多作ぶり驚かずにはいられないはずだ。しかし悲しいかな、そうした未発表作の数があまりにも多く、また自らの書き換え作品や、あろうことかのちの作家によって書き換えられた作品や、未完原稿をのちの作家が補完したものや、それらのオリジナルが次々と発表された結果、その業績を明確な形でまとめあげるのはかなり困難な作業となってしまった。

 もともとが、パルプ雑誌という、いわば読み捨てられる運命の大衆娯楽雑誌が発表の舞台である。ハワードも生前には、その作品をまとめた単行本などは一冊も刊行されてはいない。いまだにそんな雑誌に掲載されたまま、のちの単行本に未掲載の作品すら残されているというのが現状である。いつの日にか、ハワードの全作品(もちろん詩編も含む)をまとめあげた全集が発行されることを願う。

■ハワード紹介本■

 このコーナーで書いたハワードの生い立ちや業績は、邦訳本のまえがき/あとがきで多くの人が紹介しているため、ある程度は御存知だった人も多いでしょう。更に深くハワードを知ろうという人には、アメリカで発行されているハワード紹介本を取り寄せることをお勧めします。その中でも、特に重要な一冊をここでは紹介しておきましょう。

THE LAST CELT
A Bio-Bibliography of Robert Ervin Howard
グレン・ロード著(ドナルド・M・グラント刊 1983)

 ハワード遺稿の管理人としても知られるグレン・ロードがまとめあげたハワードのビブリオグラフィ兼、簡単な伝記。特に作品一覧は初出雑誌や翻訳など詳細に調べられており、ハワード・マニアのバイブルとなっている。やや発行時期が古くなっているのが残念だが、その後の刊行物はある程度自分でも調査できる範囲にあるので大きな問題ではない。

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