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《コナン・ザ・コナン》ロバート・E・ハワードの世界
ロバート・E・ハワード作品
オリジナル翻訳


THE DAUGHTER OF ERLIK KHAN by Robert E. Howard
エルリク・カーンの娘
 エル・ボラク・シリーズ

 《2》

 キャンプを離れるとき、ゴードンは後ろを振り返ることはなかった。仲間が裏切りを働くなどといった考えは、彼の心から最も遠い場所にあった。地図にさえ載っていない荒野に消えた仲間を探し、長い探索旅行を続けている西洋人――そう彼ら自身が説明した状況を疑う理由などはなかったのである。

 キャンプを去ってから一時間あまり、草の生い茂る峰の縁をまわっていたゴードンは、茂みの外べりでもそもそと動くレイヨウを発見した。風は獲物から彼へと流れる向かい風だ。ゴードンが茂みの中から獲物に忍び寄ろうとした、ちょうどそのとき、彼の背後の茂みでもゆらゆらと動きが生じ、ゴードンは彼自身がつけられていることに気付いた。

 ひとかたまりの茂みの奥に、ちらりと人影をとらえた。と次の瞬間、銃声が彼の耳に届くやいなや、彼もまた石火のごとく発砲し、その後に煙が揺立ち上がった。草原の中に一瞬の揺らめきが生じ、それから後は静寂に包まれた。しばらくのち、彼は絵のように地面に横たわった人物の脇に屈み込んでいた。

 それは贅肉のない屈強な若者で、イタチの毛皮に縁どられた〈キラット〉、毛皮の〈カルパック〉、銀製のかかとのブーツを身につけている。鞘に収めたナイフをズボンに下げ、近代的な連発式ライフル銃が彼の手の近くに転がっていた。男は心臓を撃ち抜かれている。

「トルコ人だ」ゴードンがぼそぼそつぶやいた。「山賊か……風体からして、一人で偵察に出ていたらしいな。どのくらいおれをつけていたんだろう」

 この男の存在は、二つのことを暗示している。トルコ人の一団がどこかこの付近にいること、それに近い場所に馬がいるはずだということ。遊牧民は獲物に忍び寄るときでさえ、決して長い距離を歩くということはない。ゴードンは立ち上がりながら、茂みの発生するあたりを見上げた。このイスラム教徒が低い峰の上から彼を発見し、峰の反対側に馬を結び付けてから、ゴードンがレイヨウに忍び寄る間に、彼を待ち伏せして攻撃するために茂みの中に身を隠した――おおかた、そんなところであろう。

 声が届く範囲に仲間の部族民がいるとは思えなかった。でなくば、ライフルの銃声を聞きつけ、この場所に男どもが殺到してきているはずだ。だが、それでもゴードンは注意深く坂を上った。なんなく馬を見つける。幅広の銀のあぶみと重々しい金の飾り付きの馬勒、それに赤い皮鞍を付けたトルコ産の雄馬である。鞍の中心に掛けられた皮製の鞘に、半月刀が差し込まれていた。

 ゴードンは鞍に飛び乗り、尾根の頂から四方を見渡した。南の方角に、午後の空に紛れかすかに煙がたなびくのが目に入る。彼の黒い瞳は、鷹の眼のように鋭かった。濃青色の空のなか、これほど微かな青い筋を見分けることができる人間は、そう多くはあるまい。

「トルコ人は、山賊を意味する」彼がぼそぼそとつぶやいた。「そして煙が見えるからには、近くにキャンプがあるに違いない。奴ら、おれたちをずっと追跡していたな。疑いの余地はない」

 手綱を操り、彼は自らのキャンプを目指した。獲物を追って数マイルも東に移動してしまったようで、戻る道すがら、彼は馬上で食事を終えていた。カラマツ林の外べりで馬を止め、キャンプを張った斜面を馬上から静かに見渡したとき、薄暮までにはまだ時間があった。

 キャンプは跡形もなくなっていた。テントもなければ、人も馬もまったく姿を消している。

 彼はあたりの尾根や茂みに視線を走らせたが、警戒すべき様子はまったくなかった。意を決し、ライフルを構えたまま、上り勾配に沿ってゆっくりと馬を進めた。ペンブロークのテントが立っていたあたりの地面に、血痕を発見した。しかしそれ以外には、いかなる暴力の跡も見つけることはできなかった。野生の騎馬部族が蹴撃したのであれば、その証しとして草が踏み荒されているはずだが、そんな様子もない。

 すべての状況は、迅速に、手順を踏んでこの場を退去したことを示している。彼の仲間は、いつものようにテントをたたみ、荷物を馬に積み込んで、この場を立ち去ったのだ。だがなぜだ? 遠くに騎馬部族の姿をとらえたことが、西洋人たちを恐怖に駆り立てたのかもしれぬ。しかしそうだとすれば、立ち去る前に白煙の合図を送るはずだが、それもなかった。いずれにせよ確かなのは、あのアフメドが主人にして友人でもある男を見捨てるはずはないということである。

 彼は草の上に残された馬の進行方角を調べてみたが、困惑は増すばかりだ――仲間たちは西に向かっているではないか。

 男たちが口にしていた目的地は、この山脈を越えた北に位置している。そのことは、ゴードンだけではなく男たちもまた十分に承知していたはずだ。それについては間違いようがない。なんらかの理由で、ゴードンがキャンプを離れた直後に――残された証拠から明らかなように――男たちは慌ただしく荷造りをし、禁断の土地である〈エルリク山〉へと向かい西に進路を定めたのである。

 ことによったら、彼らがキャンプ地を移動するだけの正当な理由があり、ゴードンに残したなんらかの種類のメッセージを、彼が見落としているだけかもしれない。ゴードンは再びキャンプ地に馬を返し、そして広い範囲に円を描くようにして、地面を調査し始めた。今度は、何か重い物体を引きずっていった確かな証拠を、草の上を発見する。

 人間と馬との足跡が、その微かな証拠をほとんど消し去ってはいたが、長年の荒野での生活で身に付けたゴードンの研ぎ澄まされた感覚はごまかせない。彼は、ペンブロークのテントが立っていたあたりの地面に落残された血痕を思い出していた。

 南側斜面の下方にできた茂みの中へと続く、押しつぶされた草の跡を追っていく。その直後、ゴードンは一人の男の横にひざまずいていた。その人物はアフメドで、ゴードンは最初、彼が死んでいるものと思い込んだ。しかしすぐに、このパンジャブ人が銃弾で撃ち抜かれ、明らかに死相が現われているとはいえ、わずかな命の灯火がまだ残されているのを知った。

 ゴードンはターバンを巻いたアフメドの頭を抱え、青紫に変色した唇に水筒を添えてやった。アフメドは呻き声を上げ、そのどんよりした瞳に知性が宿り、ゴードンを認めたのが判る。

「誰にやられた、アフメド?」感情を押し殺したゴードンの声。

「オルモンドの旦那だ」パンジャブ人が喘ぎながら言う。「おれ、あいつらのテントの外で立ち聞きしたんだ。あいつらが旦那を裏切る算段でも練っているんじゃねぇかと心配になったもんでよ。おれ、はなからあいつらを信用してなかった。それからあいつが、おれを撃った。あいつら、旦那をこの丘で死ぬに任せようって、旦那一人を残して出発しちまったよ」

「しかし、訳が判らん。一体なぜだ?」ゴードンは、今までにも増して一層頭が混乱してしまう。

「あいつら、ヨルガンに向かっただよ」喘ぎながら応えるアフメド。「おれたちが探していたレイノルズ旦那なんて、最初からいやしなかったんだ。あいつらが旦那をだますためにでっちあげた嘘だったんだ」

「ヨルガンだと――一体なぜ?」ゴードンが訊ねる。

 だがアフメドの瞳に死が忍び寄り、大きく見開かれた。ゴードンの腕のなか、苦しそうに激しく痙攣し、唇から血がこぼれ落ち、アフメドは死んだ。

 機械的に手を拭いながら、ゴードンは立ち上がる。彼が濶歩するこの砂漠さながら、不動のたたずまい――もともと彼は、あまり感情を表に出さない性格である。いま彼は、狼やジャッカルの餌食となるのを防ぐため、亡骸の上に黙々と石を積み、ケルンを作り上げた。アフメドは、危険漂う薄暗い路地を幾度となく彼と共に切り抜けてきた同志だった。主従の関係を越え、友人と呼べる間柄だったのだ。

 だが最後の石を積み上げ終えるや、ゴードンは鞍に飛び乗り、あとはもう後ろを振り返ることなく西に馬を走らせてゆくのだった。彼は今、食物もなく適当な身支度もなく、この荒涼の大地にたった一人で放り出された状態にいるのだ。幸運にも一頭の馬を手に入れることができたとはいえ、これから先は、世界中の未開の土地を長年放浪して培った豊富な経験、また他のどの西洋人にも真似のできぬ砂漠の荒野への馴染み深さだけが頼りとなる。文明化された辺境居留地のどこかに生きてたどり着けると考えることは、十分にもっともらしい想像なのだ。

 だがゴードンの頭に、そんな行動を取ろうとの考えは微塵もなかった。ゴードンの義務感、恩義、復讐心は、彼が長年共に過ごした野蛮人のそれと同じく一途にして原始的であった。アフメドは彼の友人だった。しかも彼への忠誠を守ったために死ぬはめになってしまったのだ。血の代償は、血によって購われねばならない。

 その考えは、灰色狼にとって空腹を満たすことこそが第一義であるのと同じくらい、ゴードンにとっては当然の考えであった。彼は、殺人者たちがなぜ禁断の地ヨルガンに向かっていったのかは知らなかったが、それは大きな問題ではない。彼がやるべき仕事は、必要とあらば地獄の果てまでも追跡を続け、流血に彩られた復讐を成し遂げることだけである。他に取るべき道はなかった。

 陽が落ち、空に星がまばたき始めたが、彼はペースを落とさない。星明かりの下でさえ、キャラバン隊が長い草に残した痕跡をたどることは難しくはなかった。このトルコ馬はなかなかの良馬で、しかもすこぶる生きが良かった。出発が大きく遅れたにもかかわらず、積み荷を満載したポニー馬に追いつくのは時間の問題だ。

 だが、そのまま数時間が過ぎた頃になると、彼としても、イギリス人たちが夜通し前進を続ける意思をもっているのではないかと思いを巡らすに至る。彼らはゴードンが徒歩で進んでいると思い込んでいるはずだが、にもかかわらず、明らかにゴードンに追い付かれることがないよう、自分たちとゴードンとの距離を引き離すことに躍起となっている。それほどまでにして真の目的地を隠さねばならぬ理由とは、いったい何なのだろうか?

 そのとき、何を思ったか突然彼は壮絶な笑みを浮かべ、馬に一層の拍車を掛けた。その手は本能的に、長い角で作られた鞘に差し込まれた幅広の半月刀の柄をまさぐっている。

 彼の視線の先には、星明りのなかにぼんやりと浮かぶ白い雪帽子を被った〈エルリク山〉があった。やがてゴードンは、その行く手をヨルガンがあるべき方角へと向けた。彼は以前にも一度、その地に赴いたことがあった。日の出とともに頭を丸めた司祭が吹く長い青銅製ラッパの音が、低いうねりとなって山間に響き渡る音が懐かしく思い起こされた。

 一本の小川のほとりに群生するヤナギの近くに焚火の明りをとらえたのは、すでに真夜中過ぎのことであった。ゴードンは一見して、それが彼が追跡している男たちのキャンプではないと認識した。それというのも、火の数が多すぎる。これは〈エルリク・カーン山〉とイスラム教徒の部族との間のあいまいな国境地帯をさすらっている、放浪のキルギス人たちの〈オルドゥー〉に違いない。この種のキャンプは、ヨルガンまでの道すがら広く点在していた。先を行くイギリス人たちがこうしたキャンプを十分に避け得たのかどうか、それも大いなる疑問であった。この地の荒くれ男どもときたら、他所者を憎んでやまないのが普通である。ゴードン自身でさえ、以前にヨルガンを訪れたときには、現地人の姿に変装することでその偉業を達成したのである。

 ヤナギの木立に身を隠しつつゴードンは、小川沿いにキャンプ上方から近づいていった。やがて、小さな焚火の火を通して、馬に乗った見張り番のぼんやりした姿を見分けられる位置にまで寄る。そのとき、彼は別のある物も視界にとらえた――灰色の毛皮でできた円い〈キビカス〉の輪に混じり、ヨーロッパ風の白いテントが三つあったのだ。ゴードンは静かに悪態をついた。もし黒キルギス人がテントの持ち主である西洋人たちを殺したのだとすれば、彼の復讐の機会は永遠に失われてしまったことを意味する。彼は更に近づこうと身を動かした。

 そのとき、用心深くあたりをうろつき回っていた狼じみた犬が、彼の存在を嗅ぎ付けた。狂暴な吠え声を聞きつけ、毛皮のテントから一斉に男たちが飛び出してくる。馬上の見張りの一団は、早くも弓に矢をつがえながら一点に向け先を争う。

 そこで慌てて駆け出し、雨なす矢の絶好の標的となる愚行を犯すゴードンではない。彼はヤナギの陰から飛び出るや、馬上の男どもが彼の存在に気付くより速く、彼らの間に紛れ込んだ。そのまま音もなく、トルコ風の半月刀を打ち振るい、右左の敵を薙ぎ払う。すぐさま刃の群れが彼を襲うが、相手方の混乱振りがゴードンに味方した。ゴードンの振るう半月刀が相手の鋼と激突し、耳障りな音をあたりに響かせる。次の瞬間、彼の剣が大柄な頭蓋骨をぱっくりとかち割っていた。士気をくじかれた戦士の群れが虚勢を張った罵声を浴びせるのを尻目に、敵中を突破し深い闇の中へと疾走していくのだった。

 喧騷に混じり、聞き覚えのある声が叫びを上げている――オルモンドだ。少なくとも、殺されてはいないらしい。それにゴードンは、焚火の火明りを通し、長身の人影もちらりと見かけていた。あれはペンブロークのひょろ長い体躯と見て間違いあるまい。男が手にした鋼に、きらり火明りが反射していた。イギリス人たちが武装を許されているとなると、彼らが捕虜となっているとは考えにくい。この地の残忍な遊牧民がそれほどの寛容を見せるとは、ゴードンの中近東世界に関するいかなる知識を拾い集めたところで到底説明不可能な、なんとも不可解な展開ではあった。

 追跡者たちも、そう遠くまでは彼を追ってこない。漆黒の闇夜を通し、男たちがテントに馬を戻しながら、互いに大声で喉頭音の多い会話を続けている声が流れてくる。今夜はもう、この〈オルドゥー〉で睡眠が取られることはあるまい。抜き身の刃を手にした馬上の男どもが、夜が明けるまで野営地の夜警に徹することになるだろう。ゴードンが復讐の相手を射程距離に収める場所にまで再びキャンプに近づくことは、もはや不可能だ。だが今のゴードンは、敵を葬りさる前に、なぜ彼らがヨルガンを目指しているのか、その理由を知りたい気持ちも強くなっていた。

 知らず知らず、ゴードンはトルコ風半月刀の、鷹頭を形どった柄を愛撫している。それからおもむろに東へと馬の向きを戻すと、疲労の目立つ雄馬にむち打ち、もと来た道を全速で下っていくのだった。

 彼が探し求めていたものを発見したとき、夜明けまでにはまだ少しの時間があった。ゴードンが探していたのは、別のキャンプで、それはアフメドが殺された例の地点から数十マイルほど離れたあたりで見つかった。そのキャンプでは、一つの小さなテントと、そのまわりで外套にくるまり地面に直に横になった男たちの姿を、消えかけた焚火が浮かび上がらせている。

 ゴードンも、この場は必要以上にキャンプに近づこうとはしない。キャンプの近くで、ときおり緩慢な動きを見せる繋がれた馬の列と、キャンプを囲むようにして手綱を操る見張りの姿だけを確認するや、草の長く伸びた尾根の背後に身を隠し、そこで馬を下り、馬の鞍を外してやった。

 獣は一心に新鮮な草を食み、それを横目にゴードンは、一本の大木を背に足を組んで腰を下ろした。ライフルを、両膝に渡して落ち着かせる。そのまま、この広大な丘陵さながら、中東世界の大いなる忍耐強さを反映したかの如く、彫像のようにぴくりともせずに時を過ごすのだった。

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