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《コナン・ザ・コナン》ロバート・E・ハワードの世界
ロバート・E・ハワード作品
オリジナル翻訳


THE DAUGHTER OF ERLIK KHAN by Robert E. Howard
エルリク・カーンの娘
 エル・ボラク・シリーズ

 《5》

 イギリス人を追跡するのにゴードンは、比較的平坦と呼べる台地を進むような真似はしなかった。ヨルガンこそが彼の目指す場所であり、そこに行けば追い求める相手を見つけることができると確認していた。しかしその一方で、間違いなく彼らを追跡しているであろう部族民から逃げなければならないという、切実な難題を突きつけられてもいたのだ。後を追う部族民たちは、あの川沿いのキャンプの惨劇を目のあたりにし、今ごろは凄まじいまでの決意をその胸に秘めていることであろう。

 平地を真直ぐに横切る道を取らずに、ゴードンは平地の南側に接した丘陵へと進路を変え、それに沿って西に向け進みはじめた。真夜中前に、重傷だった男が一人、鞍の上で死を迎えた。他の者たちも、ほとんど精神に錯乱をきたす寸前の状態にあった。それでも男たちは、亡骸を岩の割れ目に隠し、前進を続ける。山間の暗闇を通して進む彼らの姿は、まるで亡霊さながらに見える。あたりに聞こえる音といえば、馬のひづめが岩を叩く乾いた響きと、傷ついた者たちの呻き声ばかりである。

 夜明けにはまだ一時間ほど間がある頃、一行は石灰岩でできた岩棚の間にある小川にたどり着いた。ごつごつとした硬い岩質の川底を持つ、幅のある浅い流れである。そのまま川の中を三マイルほど馬を進ませ、それから再び同じ側に馬を乗り上げる。

 ゴードンは知っていた、キルギス人たちときたら、まるで狼のように彼らのたどった跡を嗅ぎ当て、川岸までなんなくたどり着くだろうと。そこで、足跡を消そうという虚しい計略を、当然想像するに違いない。だが彼の作戦は、先を進む集団が小川を渡って反対側の山間に馬を進ませていったと、遊牧民たちに思わせることにあった。うまくいけば、南側の川岸に残した彼らの足跡が発見されるまでに、かなりの時間を稼ぐことができる。

 今度ゴードンが取ったのは、真直ぐなルートだ。彼はキルギス人から完全に逃げおおせるなどとは期待していなかった。彼の頭にあったのは、時間との勝負である。もし相手がこちらの足跡を見失った場合、おそらく敵はヨルガンを除くあらゆる方角を探索するに違いない。ところがこちらが目指しているのは、まさにそのヨルガンなのだから、これからの道中、敵に見つからずに済むチャンスがないとはいえまい。

 暁の光が丘陵にも差し込み、やつれ果て、疲れた切った男たちを照らした。ゴードンは進行を停止し、しばしの休息を命じた。男たちが言われた通りに過ごす間に、彼自身はその近辺で最も険しい岩山によじ登り、双眼鏡で周囲の崖や峡谷を根気よく監視した。乾燥羊肉の固い切れ端――部族民たちは、柔らかさと暖かみを保つため、それを鞍と鞍布との間にはさんで持ち歩く――を、くちゃくちゃと口にしながら。追跡の姿はないかと峡谷を監視しながらも、彼は五分、十分程度の浅い眠りを繰り返して体力を回復させていく。それが荒野で生きる男のやり方だった。

 先を急ぎたいゴードンだったが、男たちには可能な限りの休息を与える必要があった。彼が岩山を降り、男たちを起こして回る頃、すでに陽は高い位置に昇っていた。鋼のばねのような彼らの肉体は、いくばくかの体力を回復させており、目を覚ますやてきぱきと馬にまたがった。だが重傷の男がまた一人、夜のうちに息を引き取っていた。その亡骸を岩の合間の深い亀裂の中に隠し、男たちは今日も馬を進めていく。だが、人間以上に疲れがたまっている馬を気づかい、前日よりもやや遅い速度の行軍となった。

 その日は一日中、陰気な険しい岩山に突き出た未開の峡谷を進んだ。トルコ人たちは、あたりの荒廃した自然の厳しさに怯え、血に飢えた野蛮人の大群が彼らを追跡しているとの事実に怯えた。彼らはゴードンの意のままに、一言も疑問を投げかけず彼に従っていく。崖を回り込み、そうかと思うとくねくねと曲がり、目も眩まん高所に登ったかと思えば、今度は未開の峡谷の奈落へと下っていく。再び峰を登ったかと思うと、吹きさらしの山肩に沿って慎重に馬を進めねばならない。

 ゴードンは追っ手を巻くために、ありとあらゆる策略を駆使し、でき得る限りのスピードで目的地に進んで行った。この不毛の山間部で敵の一族と遭遇する心配は、まずあるまい。彼らが家畜を放牧しているのは、ここより遥かに低い平地である。だが実は彼自身も、仲間の男たちが思っているほど、このあたりの地理に詳しいわけではなかったのだ。

 彼はただ勘――その多くは、ありとあらゆる場所を旅した男だけが持つ本能的な方向感覚だ――に頼って道を決めているだけであったが、十回ほど道を失いながらも、遠い距離を隔てた丘陵地帯の上にそびえ立つ〈エルリク・カーン山〉の姿を目印に、黙々と馬を進めた。

 かなり西に前進したところで、遂にゴードンは別の目印を発見した。日没の直前、大きく開けた浅めの谷間、針のように切り立った斜面の向こうに、それを見つけた。この角度から見るのは初めてのことだが、見間違うはずはない――背後に険しい岩山を背負ったヨルガンの城壁である。

 ヨルガンは岩山の麓に建設された都市であり、アシとヤナギが群生するなか一本の清流が流れる谷を見下ろす位置にあった。樹木は異常に深く密集している。南で〈エルリク山〉に連なるでこぼこの山脈が、谷を囲むようにして南と西に広がり、北側は、連なる丘陵によって塞がれている。唯一、東面だけが開けた土地で、でこぼことしたうねがなだらかな斜面を形成していた。ゴードンと仲間たちは、山脈地帯をずっと行軍してきたわけで、今彼らは、南側から谷間を見下ろす位置にいるのである。

 エル・ボラクは、険しい岩山から下るように戦士たちを導き、都市からは一マイル半と離れていない位置にある、より低い斜面に流れ出ているたくさんの峡谷のうちの一つに、男たちを潜ませた。その峡谷は行き詰まりに終わっていて、攻められたらひとたまりもないのは明らかだ。けれども馬は疲労の極に達していて、もう倒れる寸前だった。男たちの水筒が空になっていたこともあり、ゴードンはここで岩間から湧き出ている泉で喉を潤すことにしたのだ。

 彼は峡谷から外に伸びる細い谷間を発見し、その場所と峡谷の入り口とに見張りを配置した。もしも退却する必要が生じた場合は、この谷間が脱走口の役割を果たすであろう。男たちは、残り少なくなった食料に噛りついたり、有り合わせの装備で怪我の手当てをしたりと、思い思いに過ごしている。ゴードンが一人で偵察に出ると伝えても、ただ輝きの失せた瞳で彼を眺めるだけであり、トルコ人特有の運命論が彼らの心を掴んでしまっているのが判る。

 今やゴードンを信頼し切っている彼らではあったが、それ以前に、男たちの様子は既にして死人さながら空虚に見える。埃にまみれたボロボロの服をまとい、乾いた血をこびりつかせ、餓えと疲労とで眼を窪ませた男たち――まさに食屍鬼そのものだ。ボロボロの外套で体を包み込み、話す気力もなく、しゃがみ込む者もいれば、地面にごろりと横になる者もいる。

 それに比べれば、ゴードンはかなり楽観的な考えの持ち主だ。おそらくキルギス人の追跡を完全には巻ききれていないだろうが、いかなブラッドハウンドさながらの執拗な追跡者と言えども、彼らを狩り出すまでにはまだ多少の時間を要するであろうとゴードンは信じた。ヨルガンの住人たちによって発見されることは、まず心配する必要はない。住人たちは滅多に丘陵地帯をさまよい歩かないことを、ゴードンは知っていたからだ。

 ゴードン自身も、仲間の男たちと同様ほとんど睡眠を取っていなかったが、それでも鋼のような肉体はまったくの疲れ知らずに見える。他の人間であればとうの昔に根を上げているところを、このゴードンときたら、恐るべき活力に裏打ちされ、思考を明瞭に保ち、肉体に精気をみなぎらせているのだ。

 暗くなるのを待って、ゴードンはこっそりと峡谷から抜け出ていった。山々の上には、冷え冷えとした白銀の粒のような星がまたたいている。彼は谷を真直ぐ横切るようなことをせず、丘陵沿いに歩を進めていった。それゆえ、やがて数人の男が隠れている洞窟を発見したのも、あながち偶然というわけではなかった。

 その洞窟は、谷間から突き出た岩肩に形づくられていた。ゴードンはいきなり飛び込むことはせず、まずは大きく回り込んだ。あたり一面にギョリュウが群生し、洞窟の入り口を巧妙に蔽い隠している。彼が洞窟を発見できたのも、内部の滑らかな壁肌に、ほんのりと炎が反射しているのを目にできたからこそであった。

 茂みの中を忍び寄り、ゴードンは中の様子をうかがった。入り口から想像するのと違って、かなり大きな洞窟のようだ。小さな焚火がゆらめいており、そのまわりに三人の男が座り込んでいる。彼らが口にしているのは、喉頭音の多いパシュト語だ。男たちが、イギリス人に雇われていた使用人のうちの三人であることを、ゴードンは即座に見分けることができた。洞穴の奥に、馬とキャンプ装備一式も見て取れる。声を潜めた会話の内容は、ゴードンがかがんでいる場所からは聞き取ることができなかった。それにしても、西洋人ともう一人の使用人はどこにいったのだろうか――とゴードンが思案していた、ちょうどそのとき、彼は誰かが近づいてくる物音を聞いた。

 彼は物陰へと身を隠し、じっと待つ。すぐに長身の男が一人、星明りの中にその姿を現わした。その男はアフガニスタン人の使用人の残る一人で、両腕いっぱいに薪を抱え込んでいた。

 男は、洞窟の入り口へ続く自然の階段を登って、ゴードンが隠れている場所のすぐ脇を通り過ぎてゆく。腕を伸ばせば届くところにまで接近した。けれども彼は男をやり過ごしてから、獲物の背に食らいつく豹さながら、男の背中に飛びかかった。

 薪があたりに散らばり、二人は短い草が生えた斜面をごろごろと転げ落ちていった。だが、ゴードンの指はがっしりとアフガニスタン人のごつい喉を掴んでいた。そのため助けを呼ぼうという男の努力は無駄に終わる。洞窟内部ではパチパチと、ギョリュウの木切れの焚火が弾けており、外の取っ組み合いの立てる小さな物音にはまったく気付いていない様子。

 身長と体重で優るアフガニスタン人も、ゴードンのうねる筋肉、格闘術の前では赤子も同然だった。ゴードンは相手を地面に投げつけると、その胸の上に馬乗りになり、気が遠くなるほどに首を締め付けた。だが、敵が命と意識を失う前にゴードンは手の力をゆるめ、相手の呆然とした脳に再び血液が流れるのを許した。

 アフガニスタン人は敵が何者であるかを認めると、その恐怖は一層強まった。それというのも、彼は幽霊の手に掴まれたと思い込んだからである。瞳が暗がりの中で輝き、黒い髭のもつれ毛の中、歯が白く光る。

「イギリス人はどこに行った?」ゴードンが静かに訊ねた。「話さんか、この犬野郎め。首をへし折られたいか!」

「旦那たちゃ、夕闇にまぎれて悪魔の都に向かっていったよ!」アフガニスタン人が喘ぎながら言う。

「捕虜としてか?」

「そうじゃねえ。頭を剃り上げた男が、旦那たちを案内していった。旦那たちは武器も持っていったし、何も恐れていない様子だった」

「奴ら、あの都でいったい何をするつもりなんだ?」

「アラーに誓って、おらぁ知らねえ!」

「それじゃ、貴様の知っていることを全部話すんだな」と命じるゴードン、「だが、大きな声を出すなよ。もし貴様の仲間が聞きつけて、ここに来るようなことになったら、貴様の命もそれまでと思え。おれが獲物を探しにキャンプを離れたところから、話を始めるんだ。あのあと、オルモンドの奴がアフメドを殺したそうだな。そこまでは知っている」

「そうなんだ、ありゃイギリス人の旦那の仕業だ。おれはこれっぽっちも関わっちゃいねえ。おれが見たときアフメドは、ペンブロークの旦那のテントの外に潜んでいた。すぐにオルモンドの旦那が飛び出して来て、奴をテントの中に引きずって行ったんだ。それから銃声が響いて、おれたちが駆け寄ったときには、あのパンジャブ人はもう死んで、テントの中に横たわっていやがった。

 それから旦那たちが、テントを畳んで、荷物を馬に積み込むよう、おれたちに命令した。おれたちには良いも悪いもない。おれたちゃ、とんでもねえ速さで西に馬を走らせたんだ。真夜中にならねえうちに、異教徒どものキャンプを見つけて、もちろんおれたち兄弟は、それはもう怖じけずいちまった。ところが、旦那たちときたら、そのままどんどん進んでいくじゃねえか。やがてあの忌まわしい奴らの一人が、弓に矢をつがえて姿を現わすと、オルモンドの旦那が妙な御符を掲げて見せたんだ。トーチランプの灯りで、きらきらと輝いていやがった。すると驚いたことに、すぐに異教徒は馬を下り、地べたに座って挨拶するじゃねえか。

 その夜は、奴らのキャンプで過ごすことになった。ところが、その同じ夜、暗闇に紛れて一人の男がキャンプに忍び込んで来やがった。そこでちょっとしたいざこざが起きて、一人が殺された。オルモンドの旦那が言うには、殺したのはトルコ人の密偵だという話だった。それでトルコ人との間で戦いが起きるだろうということになり、夜が明けるとすぐに異教徒のキャンプを出発し、大急ぎで浅瀬を越えて西に向かったんだ。別の異教徒どもに会うたびに、オルモンドの旦那は例の妙な護符を見せていたよ。すると奴ら、おれたちを客人として扱ってくれるんだ。おれたちは馬を酷使して、一日中、ほとんど休まずに先を急いだ。あたりが暗くなっても、旦那たちは止まろうとしねえんだ。まったく、オルモンドの旦那ときたひにゃ、頭がおかしいに違いねえ。真夜中を過ぎた頃、やっとこの谷にたどり着いて、旦那たちはこの洞穴に隠れるよう命じたんだ。

 おれたちがこの場所にとどまっていると、今朝になって、この洞窟の近くを一人の異教徒が通りやがった。羊を追ってな。するとオルモンドの旦那がそいつを呼び止めて、例の護符を見せながら、見ぶり手ぶりで、都の司祭と話がしてえって伝えたんだ。男はいったん出て行ったが、すぐにカシミール語を喋れる司祭と一緒に戻ってきた。旦那たちはその司祭と、何やら長々と話していたよ。けど、何を話していたかは知らねえ。それからオルモンドの旦那がよ、司祭を連れてきた男を殺しちまったんだ。死体は、旦那と司祭とで石を積んで隠していたぜ。

 そのあとも旦那たちの話は続いていたようだが、やがて司祭の奴は行っちまって、その日は昼間の間はずっと、旦那たちも洞穴に入り込んだままだったな。だが、陽が暮れる頃に別の男がやって来やがった。この男というのが、やっぱり頭を剃り上げて、駱駝の毛で作った長衣を着込んでいやがった。その男と一緒に、旦那たちはあの都んなかに入っていっちまったんだ。おれたちに、馬に餌を食わせてやって、鞍と荷物はそのままにしておけと命令してな。なんでも、夜中から夜明けの間、いつでもすぐに出発できるようにしておけと言っていた。おれが知っているのは、これで全部だ、アラーに誓ってもいい」

 ゴードンはすぐには応えなかった。相手は真実を話しているのだろう、それを信じるだけに、ゴードンの困惑は一層強まってしまう。混乱した考えに集中するあまり、つい相手を掴む手がゆるんでいた。その隙を逃さず、すかさずアフガニスタン人が自由の身になろうと抵抗を試みた。突然の行動が効を奏し、ゴードンの束縛から一部逃げ出ることに成功し、どうしても手が届かなかったナイフをすかさず衣服の下から取り出した。そのまま、けたたましい唸り声を発し、勢いよくナイフを突き上げた。

 対するゴードン、さっと小さく体をねじって攻撃をかわす。間一髪、切先がシャツを切り裂き皮膚をかすめた。そのひと突きがもたらした危機に、ゴードンはかっと頭に血が上った。すぐさま両腕でアフガニスタン人の太い首を抱え込むや、あらん限りの力をその腕に注ぎ、残忍なまでにねじり上げた。男の首が、腐った小枝のようにポキッと折れる。洞窟の入り口に別の男の影が現われる頃には、すでにゴードンは暗がりの中にその身をひるがえしていた。男が用心深く小声で呼び掛けているが、それに応えるゴードンではない。彼はすでに、幽霊さながら、漆黒の闇の彼方へ消え去っていた。

 アフガニスタン人が呼び掛けを繰り返すが、いっこうに返事はない。怖くなった男は、仲間を洞窟の中から呼び寄せた。武器を手に、男たちが階段状の道筋をそっと降る。と、すぐに一人が何かにつまずいた――仲間の死体だ。死体に屈み込み、男たちは口々に恐怖のつぶやきを吐き捨てる。

「やっぱりここは悪魔の棲家だ!」一人が言う。「悪魔がアクバルを殺しやがった」

「そうじゃねえ」と別の男、「こいつは、この谷の住人の仕業に違いねえ。奴ら、おれたちを一人ずつ殺していくつもりらしい」その男はライフル銃をぎゅっと握りしめ、彼らを取り囲む漆黒の闇の中に、びくびくと視線を走らせ、「あいつら、旦那たちも騙して連れ出したんだ、どこか他の場所で殺すつもりでな」と囁く。

「次はおれたちの番だ」とは第三の男。「旦那たちも死んじまったんだ。馬に荷物を積み込んで、さっさとここを離れよう。こんな所で羊みたいに喉を掻っ切られるのを待つよりは、丘の上で殺された方がまだましだ!」

 数分後には、これでもかとばかりに馬を鞭うち、全速力で東に走り去る彼らの姿があった。

 だが、それはゴードンには関わりのないこと。彼は洞穴下の斜面を離れてから、それまでのように丘の形に沿って進むことはなかった。今度こそ彼は、マツ林の間をくぐり抜け、ヨルガンの都の灯りを目指して真直ぐに突き進んだ。ほどなく、都から東に伸びる街道に、最初の一歩を踏み入れる。街道の両脇にはマツが立ち並び、闇に沈む城砦の中へ、やや明るみのある黒い筋となって伸びていた。

 ゴードンはその街道をたどり、暗闇の中に開かれた巨大な城門、都を取り囲む頑丈そうな城壁を容易に見分けられる距離にまで近づいた。見張り役が、所在なげに火縄式銃にもたれかかっている。ヨルガンの住人たちは、外からの攻撃をまったく恐れていないと見える。なぜ恐れる必要などあろう? 残忍この上ないイスラム教徒の部族民ですら、この悪魔信仰の場所を避けて通るというのに。物々交換の喧騒や口論の声が夜風に乗り、城門を越え漂ってきていた。

 このヨルガンのどこかに、探し求める相手がいるのだ――そうゴードンは確信している。あの洞穴で待てば、やがて彼らが戻ってきたのだろうが、彼は敢えてそうはしなかった。ゴードンがヨルガンに忍び込もうとするのには、復讐とはまったく関係のない別の理由もあったのである。深い闇のなかに隠れて、あれこれ思いを巡らせていた彼の耳に、埃っぽい街道を進んでくる柔らかなひづめの音が流れてきた。あわてて彼は、マツの中へと深く身を滑らせる。だが突然、ある計画を思い立ち、向きを変え、最初にいた場所からやや離れた場所へ位置を戻した。その場所で、街道脇の暗がりに屈んで待つ。

 ほどなく、積荷を満載したラバの列が、背後と両脇とに男たちを従いやって来た。男たちはこの道を知り尽くしているのだろう、灯りも持たずに歩を進めている。街路を照らすわずかばかりの星明りの通してゴードンの瞳がとらえたのは、長い外套と円形の帽子で、その姿からこの男たちはキルギスの牧夫であることが容易に想像できる。体臭が嗅ぎ取れるほどの近くを、男たちが通過してゆく。

 暗闇のなか、ゴードンは低く構えた。列の最後の男が通り過ぎるのを待って、行動を開始する。鋼のような腕を荒々しくキルギス人の喉に巻き付け、叫び声を封じ込める。鉄の拳が男の顎に唸りを上げて炸裂し、ゴードンの腕のなか、男はぐったりと意識を失った。先を進む男たちは、すでに曲がり角を越え、姿が見えなくなっている。争いの間のわずかな物音など、ラバの背に山積みされた積荷が街道脇のマツから伸びた小枝をかすめる音にかき消されてしまったに違いない。

 ゴードンは下枝の暗がりに失神した男を引きずってゆき、手早く男の衣服を剥ぎ取ると、自らのブーツと〈カフィア〉を脱ぎ捨て、剥ぎ取った現地民の衣服を身にまとった。ただし、拳銃と半月刀とを長い外套の下にしっかり留めることは忘れない。数分後にはもう、いかにも長旅の疲労がたまっているような仕草で杖に頼りながら、帰路につく列に加わっている彼であった。あの男が意識を取り戻すのは、おそらく何時間も経ってからのことになるだろう。

 列の最後尾に加わったゴードンではあったが、さも進行の速さに付いていけぬ落伍者のように、のろのろとした歩みで進んだ。その距離は、彼がキャラバン隊の一員に溶け込むに十分ではありながら、しかし仲間から声を掛けられたり、様子を気遣われるにはやや離れているという、絶妙の距離であった。一行が城門を通過したときも、彼を誰何する人間はいなかった。陰鬱なまでの巨大なアーチ形の城門の下、明々と燃える松明の灯りを通してですら、ゴードンのその姿――良く日焼けした肌、羊飼いの服装、羊皮の帽子――は、まさに現地民そのものであった。

 松明で照らされた大通りを、彼は突き進んだ。市場や露店では、人々がぺちゃくちゃと喋りあい、大声で口論していたが、その中をゴードンは何食わぬ顔で進んでゆく。彼の姿は、あたりのうろつくたくさんのキルギス人羊飼いたちとまったく区別が付かなかった。羊飼いたちは、この都の壮大な景観に圧倒され、ぽかんと口を開けて周りを見回している――彼らにしてみれば、この地はまさに大都会そのものなのだろう。

 ヨルガンは、アジアの他の都市のどことも似たところがなかった。伝説が伝えるところによれば、この都は遥かな昔、悪魔崇拝の一教団によって建造されたという。彼らは遠い故国を追放され、長い放浪の末、地図にさえ載っていないこの場所、黒キルギスの奥地を聖域に定めたのだと言う。一族の中でも特に激しい気性の持ち主だった彼らは、やがてこの地域一帯を支配するに至ったという。だからこの都の住民は、都を建造した一族の直系子孫とキルギス人との混血ということになる。

 露店の軒先をぶらぶらと歩き回っていたゴードンは、ヨルガンの支配階級である修道士の一群に出会った。みな背が高く、頭をきれに剃り上げた、モンゴル民族に似た風貌の男たちである。この住人たちの本当の起源はどこにあるのか、との疑問を改めて抱くゴードン。少なくともチベット人ではない。この地の宗教は、どうみても仏教が変質したものには見えない。あからさまに言って、この地の宗教はまさしく悪魔崇拝なのである。ヨルガンの神殿、寺院の建築様式は、彼が今までに旅した他のどの場所のそれとも異なっていた。

 だが今は、そんな具合にあれこれ推測してみたり、あてもなくぶらぶらと歩き回って時間を無駄にしているときではない。ヨルガンはひとつの山の麓に開かれているのだが、その山肌に面して建造された巨大な石造りの建物に、彼はまっすく足を進めた。巨大にして飾り気のない石の表面は、ほとんど山それ自身の一部と化していた。

 彼の歩みをとがめる者は、誰もいない。少なく見積もっても百フィートはあろうかという幅広の階段を、彼は黙々と登り続ける。長かった巡礼に疲労した男のように、手にした杖にすがっているさまを装った。やがて巨大な青銅の扉が、見張りを置くでもなく無造作に開かれている場所にたどり着く。ゴードンはサンダルを脱ぎ捨てると、溶かした獣脂を燃やした真鍮製ランプだけに照らされた薄暗い伽藍へ、足を踏み入れていった。

 頭を剃った修道士たちが、おぼろげな幽霊のように影の中でうごめいていたが、誰一人としてゴードンに注意を向ける者はいない。おそらくは、ゴードンもまた、ここ〈七層地獄の支配者〉エルリクの神殿にささやかな寄進を携えてきた純朴な信仰者の一人と思われているに違いない。

 伽藍の向かいの端は、高い屋根から床まで届く高価そうな革製のカーテンにより、ぷっつりと覆い隠されていた。伽藍をほんの五、六歩も大股で歩けば、もうカーテンの下端に届いてしまうほどの奥行きであり、カーテンの手前では、常人にはうかがい知れぬトランス状態に耽っているのか、一人の修道士が足を組み、腕を膝の上に置き、頭をややうなだれた姿勢で、彫像よろしく不動のまま座っている。

 ゴードンは階段を昇り終えたところで足を止め、まずはひれ伏そうという仕草を見せてから、突然恐慌をきしたかのように後ずさりはじめた。修道士はまったくの無関心である。恐るべきエルリク・カーンの神像をその背後に安置したカーテンを前に、他所の土地から巡礼に訪れた遊牧民の多くが、迷信からもたらされる畏怖の念に打ちひしがれるさまを、この修道士はまざまざと目撃してきた。内気なキルギス人が、神への帰依心を回復させるまで神殿まわりを何時間もうろつき回ることがあったとしても、なんの不思議があろうか。恥ずかそうにこそこそと逃げた、どこにでもあるカフタンを着た羊飼いを気に止める司祭など、一人もいなかった。

 自分が見張られていないことを確信すると、すぐにゴードンは、高価なカーテンからやや離れた場所にある薄暗い回廊に忍び込み、ひと続きの階段にたどり着くまで、灯りのない広い廊下を手探りで進んだ。急ぐなかにも用心を怠らず、彼は階段を昇る。と、すぐに、トンネル内で光る蛍のように、灯りがぼうっと瞬いている長い廊下に出た。

 これらの灯りは、廊下に沿った小部屋から漏れる小さなランプの灯りであることを、ゴードンは知っていた。小部屋の中では、修道士が黒魔術の黙想に何時間も費やしたり、外部の人間はその存在すら耳にしたこともない禁断の巻き物を熟読して過ごしているのだ。ゴードンは小部屋の中の修道士に発見されぬように注意深く通り抜け、廊下の端近くにある階段を再び昇る。室内に灯された小さなランプだけでは、廊下にできた暗闇を照らすことなど到底不可能だった。

 踊り場にたどり着くや、ゴードンは俄然気を引き締めた。というのも、彼はこの階段を昇った所で一人の男が警護に当たっていることを知っていたからだ。だが同時に、その男がうたた寝している可能性が高いことも知っていた。果たして、男はそこにいた――皺だらけの顔をした半裸の巨人――男は聾唖者だった。幅広に削られた〈トゥルワー〉を膝の間に渡し、その上に頭を垂れて眠りこけている。

 ゴードンは忍び足で男の前を通り抜けると、一定間隔ごとに配置された真鍮製ランプでぼんやり照らされている上の階に足を踏み入れた。この階には、扉なき小部屋ではなく、青銅が打ち付けられたチーク材の重厚な扉が、通路側面に並んでいた。ゴードンはためらうことなく、ことさら華麗な彫刻を施され、奇妙な格子模様のアーチを装飾されたひとつの扉を目指し、一直線に進んでいく。屈み込み、じっと扉の向こうに聞き耳を立てたのち、意を決し、扉を小さくノックした。三回ノックし、やや間を置いて再び三回、また三回と、都合九回ノックする。

 しばしの静寂が張り詰めたのち、絨毯張りの床を慌ただしく駆け寄る足音が聞こえ、扉がぐいと開かれた。淡い灯りのなか、素晴しい人影が浮かび上がる。女だ――輝くばかりの活気に溢れた水々しい姿態の、しなやかにして美しい女性だ。しなやかな腰を覆う腰布にちりばめられた宝石の数々も、彼女の瞳の輝きには遠く及ばなかった。

 現地民の装束にも係わらず、彼女の瞳はすぐさまゴードンの正体を見極め、ぱっと燃え上がった。荒々しいばかりの力を込め、女はゴードンにしがみつく。ほっそりとした腕ではあったが、その力は弾力ある鋼のように強かった。

「エル・ボラク! 来てくれると信じていたわ!」

 ゴードンは部屋の中へ足を踏み入れると、後ろ手に扉を閉めた。部屋の中を素早く見渡し、ここに彼ら二人しかいないことを確認する。厚いペルシャ風の敷物、絹の寝椅子、ビロードでできた掛け布、金細工のランプ――それらすべてが、寺院の他の場所との間に厳然たる対比を醸し出していた。それからおもむろに、ゴードンは傍らに立つ女性と真正面から向き合った。彼女は情熱的な勝利感に包まれ、白い手を固く握りしめている。

「どうしておれが来ることが判ったんだ、ヤスミナ?」彼が訊ねた。

「助けを必要としている友をあなたが見捨てるはずがないわ」と彼女が応える。

「誰が助けを必要としているだと?」

「私に決まっているじゃない!」

「だがあんたは女神ではないか!」

「全部手紙に書いたでしょ!」女は困惑して叫んだ。

 ゴードンはかぶりを振る。「手紙なんか受け取っておらんぞ」

「なんですって。それじゃどうしてここに来たのよ?」彼女の困惑は一層強まった。

「話せば長いことになる」とゴードン、「だがまず、あんたの方から説明してくれ。最高の権力を手にしておきながら、それに飽きるとすべてを投げ捨て、この奇妙な世界の女神となったあんた、ヤスミナともあろう人間が、助けを必要としているとは一体どういうことだ?」

「ああ、どうしてもあなたの助けが必要なのよ、エル・ボラク」彼女は神経質に震える手で、黒髪を掻き上げた。その瞳には疲労の色と、それ以上の何か――ゴードンがかつて一度も目にしなかったものだ――恐れの影がそこにあった。

「そこに食べ物があるわ。私よりもあなたの方が必要としているみたいね」そう言いながら彼女は寝椅子に身を沈めると、可憐な足で金製の小さな食卓を彼の方に押してよこした。食卓の上には、金製の皿に盛られたチュパティー、カレーライス、焼いた羊肉。同じく金製の水差しに入ったクーミス酒。

 ゴードンは何も言わずに座り込むと、なんの遠慮もなく旨そうにほおばり始めた。くすんだ茶色の駱駝毛のカフタンを着、広い袖口から筋肉質の褐色の腕をのぞかせながら、彼はこのエキゾチックな部屋に視線を走らせている。

 ヤスミナは組んだ手の上に顎を休ませ、謎めいた瞳でじっとゴードンの様子をうかがっている。

「エル・ボラク、私が権力を手に収めていたですって? 冗談じゃないわ」彼女がおもむろに口を開いた。「もううんざりなのよ。風味の抜けた葡萄酒みたいなもの。甘言も侮辱でしかないわ。男たちの賞賛の声にしたって、意味もなく繰り返されるだけ。もう飽き飽きよ、どいつもこいつも同じような間抜け顔をした男どもが私にへつらうことには――。誰も彼も似た羊皮の服を着て、皆が羊程度の頭しか持っていないのだから。でもエル・ボラク、あなたは違っていたわ。それにあなたの狼みたいなお仲間たちもね。エル・ボラク、わたしはあなたに特別な感情を抱いていたかもしれない。でもあなたは愛するにはあまりにも激しすぎる何かを持っているの。そう、あなたの魂は研ぎ澄まされた刃、触れたらこっちが切れてしまいそう」

 ゴードンは無言だった。そして金色の水差しを傾け、普通の男の頭だったら一発で吹っ飛んでしまうほどのきついクーミス酒をなみなみと注いだ。あまりにも長いあいだ遊牧民の暮しを続けたおかげで、今や嗜好までもがすっかり遊牧民のそれに染まっているのだ。

「そう、確かに私はカシミール王子の妻になり、あの国のプリンセスになったわ」彼女は話を続けた。その瞳は、魅力的に揺れ動く陰りと色彩とでくすぶっている。「あの頃の私は、男の残酷な部分についてはすべて知り尽くしているとうぬぼれていた。でも学ばなければならないことは、まだまだたくさんあると気付いたの。あの男は獣よ。私は彼の元を逃げ出してインドに逃げ込んだわ。イギリス人の後ろ楯がなければ、きっと暴漢どもが私をあの男の元に連れ戻していたでしょうね。あの男ときたら、しつこいったらないんだから……今でも私を生きたまま連れ戻した者には何千ルピーも支払うと言っているそうね。あの男のことだから、きっと私が死ぬまで拷問に掛けて虚栄心を満たすつもりなんだわ」

「その噂は聞いたことがある」ゴードンが応えた。

 よみがえった記憶に、彼の表情は暗くなった。顔をしかめることこそしなかったが、しかしその噂にはどこか気に掛かる不吉さが隠されているのを感じた。

「あそこでの経験は、私が我慢できる不快感の限界を越えていたのよ」と彼女、黒い瞳が内省的にうごめいている。「そのとき私は思い出したの、私の父がかつてはヨルガンの司祭をしていて、異国の女性と恋に落ちてヨルガンを抜け出したってことを。いうなれば私のコップは空になってしまい、鉢はすっかり乾燥しきっていたってわけよ。私がまだ赤ん坊だった頃、父はよく私にヨルガンの話を聞かせてくれたわ。その話を思い出してからというもの、世界のすべてを投げうってでも自分の本当の魂を見い出したいという熱望がどうしようもなく高まってしまったというわけ。私が知っていた神はみんな私には不誠実だった。それに私の身体にはエルリクの印が――」そう言うと彼女は真珠を縫いつけたベストの前をはだけ、堅く引き締まった胸の谷間にある星形の不思議な痣を示して見せた。

「それで私がヨルガンに来たことは、あなたもよく知ってのとおりよ。知っているも何も、あなたが私をイシーク・カルからここに連れてきてくれたんですもの、キルギス人のふりを装ってね。あなたも知ってのとおり、ここの人達は私の父を覚えていたわ。父のことは裏切り者と蔑んでいた彼らも、私は仲間の一人として受け入れてくれたのよ。それもこれも、胸に星を持った女性についての古くからの伝説のお陰ね。人々は私をエルリク・カーンの娘の化身、女神として歓迎してくれたわ。

 あなたがここを立ち去ったあと、しばらくの間は私も満足していたわ。ここの人達は、私が文明社会で見てきたどんな荘厳なミサよりも誠実に私を崇拝してくれるのよ。ここの不思議な儀式は確かに奇妙だけど、同時に魅力的でもあるわ。でもやがて、私は彼らの謎に深入りするようになってしまった。取り澄ました上辺の奥に隠された本質に気付きはじめるようになったの……」そこでヤスミナは話を中断し、ゴードンは彼女の瞳が再び恐怖で見開かれるのをじっと見つめた。

「私が夢見ていたのは、いってみれば哲学者が住むような、神秘的で穏やかな安息所だったの。でも実際に見い出したのは、邪悪以外の何ものでもない、獣じみた悪魔の棲み家でしかなかった。神秘的ですって? まがまがしいシャーマニズムじゃない。まるでツンドラに育てられらみたいに腐敗しきっているのよ。ええ、この私ヤスミナは、言葉の持つ真の意味など判らないけれど、でも恐ろしくてたまらないの。司祭のヨゴックが私の教育係なの。あなたはヨルガンを発つ前に警告してくれたわね、ヨゴックには注意するようにって――。あの忠告をもっと気に止めるべきだったわ。あの男は私を憎んでいる。彼は私が女神などではないことを知っているけれど、私がここの人たちに及ぼす力の強さは恐れているわ。あの男に勇気というものがあったとすれば、ずっと前に私を殺していたでしょうね。

 とにかくヨルガンに溢れた死にはほとほと疲れきってしまったのよ。エルリク・カーンも魔神も、結局はインドや西洋の神々と同じで錯覚でしかないと気付いてしまったの。ここでも理想の道を見つけることはできなかったというわけね。今の私はただ、私がかつて捨てた世界に戻りたいという願望だけが心を占めているの。

 デリーに戻りたいのよ。夜になれば、あの街道と市場に溢れた喧騒と匂いの夢を見る毎日。私の中には半分インド人の血が流れている。そのインドの血がこぞって私に呼び掛けているの。私が馬鹿だった。この手に人生を掴んでいながら、それに気付いていなかったのよ」

「ではなぜ、戻らんのだ?」ゴードンが訊ねた。

 ヤスミナは身を震わせながら応える。「できるわけないじゃない。ヨルガンの神は、永久にヨルガンにとどまらなければならないのよ。神が一人でも離れればこの都は滅びると、ここの人達は本気で信じているわ。あのヨゴックは私がいなくなれば喜ぶでしょうけど、住民たちの怒りが自分に降りかかるのを恐れるあまり、私を殺すことも、私がここを逃げ出すのを手伝うこともできずにいるのよ。私の力になってくれる男はただ一人しかいないと知っていた。それで私はあなたに手紙を書いて、タジク人の商人にこっそり持ち出させたの。手紙と一緒に、私の印である聖なるペンダントを送ったでしょう――宝石をちりばめた黄金の星形を。あれがあれば、遊牧民の土地も安全に通過できるはずよ。彼らはあのペンダントを持っている人間を決して傷つけないわ。あれを持っていれば――この都の司祭は別にして――それ以外の人間からは安全なはずよ。全部手紙で説明したじゃない」

「だから手紙は受け取っておらんのだ」とゴードン、「おれがここに来たのは、二人の悪党を追ってきたからさ。奴ら、おれにウズベク人の土地までの案内を頼んでおきながら、なんの理由もなくおれの使用人だったアフメドを殺し、おれを丘陵地帯に置き去りにしたのだ。そいつらが今、ヨルガンのどこかにいるんだ」

「西洋人が?」ヤスミナが叫んだ。「あり得ないわ! あの部族民の間を無事に通り抜けてこれるはずは――」

「パズルを解く鍵がひとつだけある」ゴードンが話をさえぎった。「どんないきさつがあったかは知らんが、あんたの手紙が奴らの手に落ちたに違いない。あんたの星のペンダントがあれば、ここに来るのもたやすいことだ。だが奴らがあんたをここから逃がす手伝いをするとは思えんな。でなくば、この近くの谷に着く早々、ヨゴックと連絡を取ったりするわけがない。考えられるのは、ただひとつ――奴ら、あんたを誘拐して元の旦那に売り飛ばすつもりに違いあるまい」

 ヤスミナは背筋をしゃんと伸ばして座り直した。その白い手は寝椅子の縁を固く握り締め、瞳がぎらぎらと輝いている。この瞬間、彼女は攻撃を加えんと釜首をもたげたコブラと同じくらいに危険で、同時に華麗に見えた。

「あの豚のもとに戻れっていうの? その犬どもはどこよ? 私の口から住民に話してやるわ。そうすればその悪党どももそれまでよ!」

「そううまくいくとは思えんな」とゴードンは返答した。「住民たちは他所者と、それにたぶんヨゴックも殺すだろう。だがあんたがヨルガンを逃げ出そうとしていたことも、ばれてしまうぞ。そうなったら、あんたはもう寺院の中の自由を歩き回ることすら禁じられてしまうのではないか」

「たしかにそうね。今でさえ、私の行動はすべてあの頭を剃り上げた骸骨どもがこそこそ見張っていて、ただこの階にいるときだけ自由が許されるの。この階から下りる階段はひとつしかないし、その階段にはいつも見張りが付いているのよ」

「眠りこけた見張り人か」ゴードンが言う。「たしかに気の滅入る話だ。だがもし、あんたがここを逃げ出そうとしていることがばれたら、あんたは残りの人生を窮屈な小部屋の中に閉じ込められて過ごすはめになる。ここの住民は自分たちの神には殊更に注意深いようだからな」

 ヤスミナはその身を震わせ、檻を恐れる鷲のように、彼女の高貴な瞳にちらりと恐れの色が浮かんだ。「それなら一体どうすればいいの?」

「おれにも判らん――今はまだな。実は百人ほどのトルコ人の盗賊どもを近くの丘に隠してきたのだが、今となっては手助けになるどころか足手まといだ。真正面から戦うにしては装備が不足しすぎているというのに、どんなに遅く見積っても、明日までには間違いなく発見されてしまうだろう。この場所に奴らを連れてきたのはおれだからな、無事に脱出させてやる責任がおれにはあるんだ――全員とはいかずまでも、できるだけ多くの人間を。おれがここに来たのは、あのイギリス人オルモンドとペンブロークに復讐するためだが、それは後回しにしても構わん。まずはあんたをここから逃がすのが先だな。だがヨゴックとイギリス人たちがどこにいるのかを掴むまでは、下手に動くことはできん。信頼できる人間が、誰かこのヨルガンにいるか?」

「誰もが私のためだったら命を捧げるでしょうけど、ここから逃がす手助けをしてくれるとは到底思えないわ。もしも修道士たちが私を実際に傷つけでもしたら、住民たちも色めきだってヨゴックに反抗するでしょうけれど。いいえ、やっぱりだめ、誰も信頼するわけにはいかない」

「この階に上がる階段はひとつしかないと言っていたな」

「ええ――この寺院は山を背にして建てられていて、下の階の部屋や廊下は山そのものの中につながっているのよ。でも最上階のここだけは、私のために完全に孤立して確保されているの。ここを離れるためには寺院へ下りて行かなければならないし、そこは修道士でいっぱいよ。夜の間はここに侍女を一人置いているけれど、彼女も今はどこか別の部屋で眠っているはず。どうせいつものように、バングの麻薬を吸って意識をなくているんでしょう」

「至れり尽くせりだな!」ゴードンは不平がましく言った。「さぁ、この拳銃を受け取るがいい。おれが部屋を離れたら扉に鍵を掛けて、おれ以外の人間は誰も入れるんじゃないぞ。いつものように九回のノックで、おれかどうか判断するんだ」

「どこに行くの?」ゴードンを見上げながらヤスミナは問い掛け、ゴードンが差し出した武器を銃尻から機械的に受け取る。

「ちょっと様子を探ってくる」ゴードンは応えた。「ヨゴックとイギリス人たちが何を企んでいるのかは、十分に判った。となると、もしおれが今ここであんたをこっそりと連れ出そうものなら、奴らとはち合わせってことにもなりかねん。奴らの計画をもう少し詳しく掴むまでは、こちらもうかつには動けないってことさ。もし奴らが今夜あんたを連れ出すつもりならば、それを実行させるのもひとつの手だな。奴らがこの都から十分に離れたところを見計らって、トルコ人を引き連れ一気に奇襲を掛け、あんたを取り戻すこともできんことはない。だがむろん、そうならないことを願っているが。撃ち合いにでもなれば、あんたが流れ弾に当たる危険が増えるだけだからな。

 さて、もう行った方が良さそうだ。おれのノックを待っていろ」

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