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《コナン・ザ・コナン》ロバート・E・ハワードの世界
ロバート・E・ハワード作品
オリジナル翻訳


THE DAUGHTER OF ERLIK KHAN by Robert E. Howard
エルリク・カーンの娘
 エル・ボラク・シリーズ

 《9》

 まだ夜が明けきらぬ薄闇の中を、ヨゴックは峡谷と風吹き付ける険しい岩山の間を続く細い小道を抜け、ゴードンを丘陵地帯へと導き、更に南へ南へと登っていく。永遠に燃え続けるヨルガンの灯りが彼らの背後で微かに確認できたが、それも二人が進むにつれて徐々に小さくなっていった。

 二人は、トルコ人が潜んでいる峡谷の東、約半マイルほどの距離にまで達した。夜が明けぬうちにトルコ人たちを峡谷から脱出させねばと熱い責任感を感じるゴードンだったが、しかし今は時間がない。彼の瞳は睡眠不足により真っ赤にぎらつき、間断なく眩暈が襲っていたが、ゴードンの凄まじい活力はかつてないほどに燃え立っていた。休む間もなくゴードンに急き立てられる司祭は、震えの止まらぬ全身から滝のような汗を滴らせている。

「奴はヤスミナを引きずるようにして進まねばならんはずだ。彼女は一足ごとにでも刃向かっているだろうからな。それに修道士に対しても休まず力を行使しているに違いない。そうでもしなければ正しい道を案内しなくなる恐れがあるからだ。とすれば、奴らに近づきつつあるのは間違いない」

 完全に夜が明けきったとき、風の吹き付ける巨大な山肩を周り込むようにして張り出した岩棚を登り続ける二人の姿を、陽の光が映し出した。そのとき突然、彼らの左手彼方でライフル銃の銃声が沸き起こった。その音は、風の唸りに混じって途切れ途切れに伝わってくる。ゴードンは双眼鏡を取り出すと、音のした方をうかがった。今いる場所は、谷間を取り巻く尾根や丘陵を見下ろせるだけの高みにある。

 遠くに見えるヨルガンは、さながらおもちゃのブロックを積み重ねたようだ。また谷間に広がるように張り出した峡谷は、人間の手の指を思わせる風景に見える。それからゴードンは、トルコ人を残してきた峡谷のあたりに双眼鏡を向ける。おそらく人間であろう黒い小さな粒が、峡谷入り口付近の巨石にへばりつくように散らばっており、一方に絶壁の上をよじ登っている人間がいる。あたり一帯に、小さな白煙が立ち上っていた。

 双眼鏡を取り出す前から直感していた通り、執拗に追跡を続けたキルギス人が、遂に獲物を嗅ぎ当てたのだ。トルコ人たちは峡谷に釘付けにされてしまった。彼はまた、渓谷の外に突き出た山の側面にある岩場からも、白煙が湧き上がるのを目撃した。ヨルガンの城門からは、黒点の列が移動を開始している。それは恐らく、銃声を聞きつけて様子を調べにいく人の列だ。だがキルギス人の方でも、既にヨルガンの都に向けて伝令を飛ばしているのは間違いない。

 そのときヨゴックが金切り声を発し、岩棚の上に倒れ込んだ。ゴードンは目に見えない手によって己の帽子が持ち去られていくのを感じ、次の瞬間、ライフル銃の乾いた銃声が彼の耳に飛び込んできた。

 間を置かず巨石の後ろに身を弾ませ、岩棚に続いている狭く薄い壁のような高台にさっと視線を走らせる。すぐにひとつの頭と肩の一部が岩柵の上に姿を現わし、続いてライフル銃が現われたと同時に、水平に近い緩い角度で火を吹いた。銃弾は、ゴードンの肘近くにあった巨石に当たり、その一部をこなごなに打ち砕く。

 ゴードンが考えていたよりもずっと、オルモンドの進む速度は遅かったと見える。そして追っ手が近づいているのに気付き、この場所で待ち受けようとじっと潜んでいたに違いない。相手がオルモンドであることは、ゴードンをあざける叫び声が聞こえたことからも明らかだ。その声の調子には、なんともヒステリックな印象があった。

 ヨゴックは恐怖のあまりにすべての勇気を失い、なす術もなく、ただ岩棚にしがみつき呻き声を発するばかりだ。ゴードンはイギリス人に向かって距離を詰め始める。オルモンドはおそらく、こちらが銃を持っていないことには感づいていまい。ちょうど太陽が山々の背後に昇りはじめ、あたり一帯を真っ赤に染める。その朝日の輝きと朝もやに邪魔され、オルモンドはライフルの狙いが定まらないようだ。

 尾根から巨石へ、また岩場から岩棚へとゴードンが跳び回るあいだ、オルモンドはやみくもに発砲を続けた。そして時折、銃弾がゴードンの至近距離をかすめて飛んでいく。それでもゴードンは、昇りかけの太陽を背負う優位な位置を保ちながら、じわじわと距離を詰めていくのだ。一向に弾が命中しない、得体の知れぬ不気味な影のような敵の存在は、徐々にオルモンドの神経を逆なではじめた。それは人間を相手にしているというよりは、まるで野性の豹が忍び寄ってくるかと思うほどの恐怖である。

 ゴードンはヤスミナの姿は確認できなかったが、修道士が姿を現わしたのを視界にとらえた。男は、オルモンドがライフル銃に装填しようとした隙を見計らい、脱走を試みたようだ。両手を背中で縛られたまま岩柵の陰から飛び出してくるや、兎を思わせる動作で男は岩場を跳ぶように横切っていく。今や完全に正気を失っているオルモンドは、すかさず拳銃を取り出し、男の肩の間に銃弾を撃ち込んだ。たまらずバランスを崩す修道士、そのまま千フィートはあろうかという絶壁を金切り声を上げて滑り落ちていった。

 ゴードンもこの時を狙って物陰から飛び出すや、丘陵を抜ける疾風と化し、足場の悪い岩場を越えて突進を開始した。ちょうどそのとき、ゴードンの真後ろに朝の太陽が姿を現わしたために、オルモンドはまともにそちらを見ることができなかった。それでもイギリス人は左腕を目の上にかざすと、意味不明の叫び声を発しながら、滅多やたらと拳銃を撃ち続けている。銃弾の中にはゴードンの頭上をかすめ飛んでいくものもあり、あるいは疾走するゴードンの足元に転がる石のかけらに当たって弾けるものもあった。そうするうちにもオルモンドの恐慌は強まる一方で、今やろくに狙いを定めようともせずに撃ち続けているのだ。

 やがてオルモンドの拳銃がカチリと、撃鉄が空の薬室を打つ音を響かせた。真紅の太陽を映して弧を描くように揺らめく剣を手に、ゴードンはほとんど手が届かんばかりの所にまで接近している。手にした拳銃を荒々しく投げつけて、オルモンドが叫び声を張り上げた。

「この化け物が! これで終わったと思うな!」そう言うと、両腕を大きく広げながら、跳ねるようにして逃げ去っていく。

 走るオルモンド、その足が岩にできた裂け目の縁に引っかかった。と思うや彼の身体はぐらりと下に倒れ込み、そのまま姿が見えなくなってしまう。あまりに突然のできごとで、まるで夢でも見ているような非現実的な光景であった。

 ゴードンも岩の裂け目に駆け寄り、物音だけがこだましている暗闇を見下ろしてみる。何も見えない――まるで底なしかと思うほどに深い割れ目だ。不機嫌そうに肩をすくめると、どことはなしに不満げな面持ちで、ゴードンはきびすを返した。

 あちこちに石が転がった岩棚の奥に、後ろ手に縛られたヤスミナが横たわっているのをゴードンは発見した。オルモンドがその場所に彼女を投げうっていったのだろう。柔らかい部屋履きは既にずたずたに裂けており、おそらくはオルモンドが岩場の道を急がせようと強制した証しか、彼女の繊細な肌に痛々しい痣やら擦り傷やらが残されていた。

 ゴードンが縄を解いてやると、ヤスミナはかつての燃え立つような情熱を思い出したように、ゴードンの腕にしがみついてきた。今の彼女の瞳に恐れの色はない、あるのはただ高ぶる興奮だけだ。

「あなたは死んだと聞かされたわ!」と叫ぶように言いたてる。「でも嘘だと信じていた! あいつらに、あなたを殺せるはずがないもの。山々や吹き抜ける風を殺せという方が、まだしも簡単でしょうね。ヨゴックをつかまえているでしょう。姿が見えたわ。あの男なら、オルモンドが殺した修道士よりも秘密の抜け道についても詳しいはずよ。キルギス人がトルコ人を殺している間に、先に進みましょう! 食べるものがないなんて気にしているわけじゃないでしょうね? もうすぐ夏になろうとしているのよ。悪くても動けなくなってしまうことはないでしょ。必要なら、しばらくのあいだ物を食べなくったって平気よ。さあ、早く行きましょう!」

「待ってくれ、ヤスミナ。おれは自分の計画のために、あのトルコ人たちをヨルガンにまで連れてきてしまったんだ」とゴードンの応え。「いくらあんたの頼みでも、奴らを見捨てていくことはできない」

 それを聞いて、ヤスミナは輝かんばかりの頭をうなずかせた。「そう言うだろうと思ったわ。あなたはエル・ボラクですものね」

 オルモンドのライフル銃が近くに落ちていたが、弾薬筒は見当たらない。仕方なくライフルは絶壁に投げ捨て、ヤスミナの手を取って立ち上がらせると、ゴードンはヨゴックが何事かをぶつぶつとつぶやきながら横たわっている岩棚まで彼女を連れて戻っていった。

 ヨゴックを引っ張りあげて立たせると、白煙が立ち昇っている峡谷を示して言う。

「もとの谷には戻らずに、あの峡谷へ向かう道はないか? 貴様の命がそれに掛かっているんだぞ」

「ここいらの峡谷の半分が、秘密の抜け道を持っておる」震えながらヨゴックが応える。「あそこの峡谷にもあったはずじゃ。じゃが腕を縛られたままでは、その道筋を案内していくこともままならぬ」

 仕方なくゴードンは彼の手の戒めをほどくことにした。だが代わりに帯を司祭の腰に結び付けると、反対の端を自分自身の腰帯に結び、いつでも手に取れる体勢を整える。「よし、案内しろ」と命令を下した。

 ヨゴックはゴードンたちが先ほど横断してきた岩棚へ戻り、そこから、まさに大自然が作り上げた硬い石畳の通路とも言える、狭い一本の道筋を進んでいく。道の両脇には目もくらむほどの深淵が口を広げている。それを進む一行が目指す先には、深い峡谷を囲むようにできた平坦な岩柵が待ち受けていた。更に危険きわまりない岩山を周り込むようにして、岩棚を進んでいく。そのまましばらく進むと、ヨゴックは狭い道の横に口を開けた洞穴に飛び込んでいった。

 天井にできたぎざぎざの割れ目から漏れ来る陽の光によって、微かに和らげられた闇の中を一行は更に進む。洞穴は突然下り坂となり、歩くあとから小さな岩のかけらが転がり落ちるようになってきたが、やがてそびえ立つ山壁の間にできた三角形の裂け目に抜け出ることができた。洞穴の出口に開けた狭い裂け目は、山壁の側面に囲まれており、硬い山壁の一部に同化した岩の尾根に隠れ、外部からは完全に死角となっている。ゴードン自身も前日、この裂け目を目にしていながら、洞穴の存在には全く気付かなかったほどである。

 曲がりくねった洞穴を進んでいるときから既に、銃声が徐々に大きくなっていたのだが、今や銃声は地響きを立てる谺となって山合に満ちている。一行はトルコ人のいる峡谷へと抜け出たのだ。ゴードンは、屈強な戦士が峡谷出口近くの巨石の上に屈み込み、彼方の斜面の岩間に見え隠れする毛皮帽を被った頭を狙って発砲している姿を確認できた。

 仲間に気付かれる前にこちらから叫び声を上げたゴードンだが、トルコ人たちは最初それがゴードンだとは判らずに、あやうく彼に向かって発砲するところだった。ヨゴックを引きずりながら仲間のもとに駆け寄るゴードン、一方トルコ人たちは、震え怯える司祭と、ぼろぼろになった豪華な服を着た女の出現を前に、驚きのあまり声もなくこちらを見つめている。ヤスミナの方では、男たちに関心はない。狼のような集団を前にしても、その牙をヤスミナは全く恐れていない様子。なぜなら今のヤスミナの関心は、すべてゴードンに向けられていたからである。近くを銃弾がうなりを立てて通り過ぎても、彼女は全くたじろぐことはなかった。

 男たちの多くは峡谷出口に屈み込んで、休むことなく銃を撃ち続けている。銃声の唸りが、五臓六腑にまでがんがんと響いた。

「奴ら、闇に乗じて忍び寄ってきやがった」と、弾を食らった前腕部に包帯を巻いた痛々しい姿のオルカーンが、苦々しく吐き捨てた。「見張りが気付く前に、奴ら、峡谷の出口を囲んでいやがったんだ。峡谷の下に配置しておいた見張りの喉を掻っ切って、こっそりと這い登ってきやがったのさ。峡谷にいた他の見張りが気付いて撃ち合いを始めていなけりゃ、おれたちゃ皆、寝ている間に喉を切られているところだったぜ。くそっ、奴らときたら、闇の中でも猫みたいに目が利きやがる。エル・ボラク、これからどうすればいい? おれたちゃ袋の鼠だ。この山壁を登ることなんぞ、できるわけもねえしよ。ここには泉はあるし、馬に食わせる草もある。睡眠も十分に取った。だが食い物はもう残っていねえし、弾薬だってそう長く続くわけじゃねえ」

 ゴードンは仲間の一人から〈ヤタガン〉を受け取ると、ヤスミナにそれを手渡した。

「ヨゴックを見張っていろ」と指示し、「もしも逃げる素振りを見せたら、遠慮なくこれを突き刺すがいい」

 それを聞いたヤスミナの瞳がきらりと光ったことから、正当な目的のためには直接行動が必要なときもあるのだと彼女も遂に理解したことを、ゴードンは感じた。必要とあらば、彼女はためらわずにゴードンの命令を実行するであろう。ヨゴックは激怒に身を焦がす大蛇のような表情を浮かべたが、しかし彼は、ゴードンを恐れるのと同じくらいヤスミナにも恐怖を抱いていた。

 エル・ボラクは巨石が散らばった峡谷口に向かいながら、途中でライフル銃とひと握りの弾薬筒を拾い集めた。トルコ人は三人が、岩間で命を落としていた。他の者も皆、多かれ少なかれ傷を負っている。キルギス人たちは外の斜面を岩から岩へ移り、じりじりと距離を詰めつつある。圧倒的多数の人数にものをいわせるため、接近戦に持ち込もうという魂胆だ。だが、そのために多くの犠牲を払うつもりはないらしい。都からはマツ並木を通って、不規則な人の列がぞろぞろと流れてこちらに登ってくる。

「修道士どもがキルギス人に合流したら、奴ら、丘を登ってあの洞穴を通り、キルギス人をここまで案内するに違いない。そうなる前に、この袋小路を脱出しなければ」ゴードンが小さくつぶやいた。

 そうするうちにも、修道士たちは丘陵地帯の最初の尾根をどうにか登りきり、更に進みながら部族民に向かって叫び声を張り上げているのだ。ゴードンも慌ただしく行動を開始した。まずは元気な馬に乗った六人ほどの戦士を選び出すと、その一方で、ヨゴックとヤスミナに予備の馬を与える。司祭には、洞穴を抜けて元の場所へトルコ人たちを案内するよう命じた。またオルカーン・シャーに対しては、何事につけヤスミナの指示に従うようにと命令を与える。今やゴードンに全幅の信頼を寄せているオルカーンは、女性の命令に従うことにも文句ひとつ言わなかった。

 ゴードンは共に残った戦士のうち、三人を山峡に配置し、自らは残りの三人と一緒に峡谷出口を固める。仲間たちが山合の隘路に馬を追い立てるのに合わせ、ゴードンたちは一斉に射撃を再開した。下の斜面にいる敵も銃弾の数が減ったことに気付いたらしく、斜面を進もうと物陰から姿を現わした。しかし数が減った代わりに恐ろしく正確さを増した、鉛玉の雨なす勢いに押し戻されて、再び物陰に戻らざるを得なかった。ゴードンの存在がトルコ人を勇気づけ、ライフル銃を持つ手にも新たな精力が宿っているのかもしれない。

 人馬の列の最後尾が裂け目の奥に姿を消したあと、更に逃走する者たちが洞穴を抜けるのに十分と思うだけの時間を待ったゴードン。頃合を見て自身も素早く身を引き、山峡に配置した手下と合流して隠し洞窟に向けて馬を走らせた。外の敵は、突然銃声が鳴りやんだことを怪訝に思い、罠ではないかと恐れてしばらくの間は行動に移れないでいる。その間にも、ゴードンたちはねじれた洞穴を全速力で駆け抜けており、ひづめの音を狭い洞穴内に鳴り響かせていた。

 峡谷を囲む岩棚で待っていた先発隊に追い付く早々、ゴードンは彼らを促し更に先を急がせた。今このときほど、身体がひとつしかないことを呪ったことはない――もしも身体が二つあれば、ひとつの身体は列の先頭でヨゴックを急き立て、一方では最後尾にて追っ手の群れが岩棚の端に姿を現わすのを見張ることができるものを――。しかし先頭を行く司祭の喉元にナイフを突きつけているヤスミナは、立派に彼の裏切りを監視する役割を果たしている。もしもキルギス人がライフルの射程圏内にまで迫ってきたときには、その刃をヨゴックに深々と突き立ててやる――そうヤスミナは胸に誓っていた。それに気付かぬヨゴックではないだけに、全身汗びっしょりになりながら、自ら進んで一団を促すように先を急いだ。

 一行はごつごつとした岩山の角を回り込み、ナイフの刃のごとく切り立った道筋が半マイルほども続く尾根に足を踏み入れていく。道の両脇は、いずれも千フィートはあろうかという岩の斜面が鋭く下降している。

 ゴードンは一人、尾根の手前、岩棚の隅で立ち止まった。手下の列がまるで昆虫のようにもそもそと尾根の上を進んでいる中、遂にキルギス人の最初の一人が岩棚に駆け込んできた。突き出た岩の陰に馬を潜ませてから、ゴードンは慎重に照準を合わせて銃の引金を引く。彼ほどの名手にとってさえ、それは長すぎる距離であったために、弾は乗り手を外したものの、代わりに男の馬を撃ち抜いた。

 驚いたのは馬の方で、高い声でいななくや竿立ちとなり、そのまま来た方向へ後ずさっていく。洞穴が口を開けたあたりの岩棚は、極めて狭い空間だった。そこへ完全に頭に血が上った馬がいななきながら飛び込んできたものだから、その馬が崖から転落する前に、あとに続いていた馬も混乱状態に陥ってしまった。制御を失った馬が更に三頭ばかり、乗り手ともども崖から転落していった。そうなると残りのキルギス人たちは、洞穴の中に後退せざるを得ない。その後も何度か前進を試みようとするが、その度に岩の上を銃弾が飛んで来るために慌てて戻らねばならなかった。

 ゴードンは後ろをちらちらとうかがい、仲間の馬がすべて尾根を渡り切り対岸の岩棚へ降り立ったのを確認した。それと同時に手綱をつかむと、岩道を一目散に飛ばしていった。もたもたしようものなら、またぞろ前進を試みたキルギス人が敵のいないことに気付き、彼が尾根道を渡り切らぬうちに岩山の角を回ってきてしまう。

 命知らずで鳴る手下たちでさえ、ほとんどが馬を降りて慎重に歩いてこの尾根道を渡っていったのだ。だがゴードンときたら、馬が足を滑らせるか、そうでなくとも一歩踏み外せばたちまち死をもたらす絶壁が両脇に口を開けているというのに、全速力で馬を走らせていくのだ。だが幸いにも、この馬の足運びは山岳羊のように確かであった。

 蒼い薄霧がくすぶる深淵を見下ろしていると、睡眠不足のゴードンの頭をくらくらと眩暈が襲ってくる。それでもゴードンは速度を緩めようとはしないのだ。なんとか無事に尾根を渡って岩棚に到着してみると、ヤスミナは顔面を蒼白にし、ピンク色の掌に爪を食い込ませて心配そうに立ち尽くしていた。キルギス人の姿はまだ見えていない。

 ゴードンは再び仲間たちを急かして馬を駆けらせる。できるだけ馬の力を温存するため、ときおり予備の馬と交代させることも忘れない。それでもまだ十頭以上の馬が残っていた。男たちのほとんどが、飢えと高山病から来る眩暈に苦しめられている。ゴードンもまた睡眠不足のために気が狂わんばかりの状態で、なんとか意思の力で正気を保ってはいるものの、視界の中では丘陵地帯がぐるぐる回って見えるような気がして今にも倒れそうだ。

 それでも荒野の厳しい生活に揉まれて逞しくなった男だけにできる芸当か、思考を明瞭に保ち続け、ヨゴックが導く道に沿って手下たちを必死に追い立て続けた。一行は、陰鬱な闇間に底が消えゆく峡谷の上に張り出した岩柵を回り込むように進む。そうかと思うと、空が隠れんばかりに両脇を切り立った岩壁に挟まれた、まるでナイフで削り取られたような谷道を駆け抜けていく。

 ときおり背後から、微かな叫び声が聞こえてくる。またあるときは、恐ろしいほどに険しい岩山の山肩で必死に馬の足場を確保しようと悪戦苦闘していると、遥か彼方を見下ろしたあたりに追っ手の姿が捉えられた。キルギス人と修道士たちは、先を進む者たちほど破滅的な速度を保ってはいなかった。結局のところ、生への願望と比べれば、憎しみぐらいでは人間、捨て身の行動など取れるものではないのだ。

 高く見上げてみると、一行の行く手には〈エルリク山〉の雪帽子を被った山頂がぼんやりとその姿を現わした。不審に思って問いかける声にヨゴックは、山を抜ける安全な道があるのだと保証した。それ以上は説明しようともしない。なぜなら顔面蒼白となった彼の心中は、ただひとつの心配で占められていたからである――正しい道筋を保たなければ、彼自身の命が真っ先に危なくなるという心配だ。今や彼を捕えている連中よりも、追っ手に追い付かれ、彼らの女神に対して己が二心を抱いていたことがばれる方がよほど恐ろしくなっていたのだ。

 すでに死人も同然の様相で馬を進めるゴードン一行、中には衰弱と激しい披露とでよろめきはじめた男もいる。馬もうなだれがちで、ときおり岩道につまずいた。吹き抜ける風が、まるで突き刺す鋼のように痛い。〈エルリク・カーン山〉の切り立った斜面に続く、大自然が作り上げた一本道とも呼べる巨大な尾根の中ほどを進んでいくうち、あたりは徐々にうっそうとした闇に包まれていく。

 山は巨大なまでに彼らの眼前にそびえ立っている。獣のような険しい岩山のかたまり、目も眩まんばかりの断崖、とてつもなく巨大な絶壁、雪を被った山頂――巨大な尾根からかいま見るその姿は、他のすべてを圧倒していた。尾根は崖の上にある岩棚で行き止まりとなっており、その前に立ち塞がった険しい岩肌には青銅製の扉がしつらえられていた。扉には装飾の多い字体で何やら碑文らしきものが刻まれていたが、ゴードンには解読できないものだ。この扉は、おそらく大砲の攻撃にも耐えうるほどに頑丈な造りだと想像される。

「ここはエルリクに捧げられた神聖な場所じゃ」とヨゴックは言うが、そういう彼とて別段敬意を払うでもなく、一緒にいるイスラム教徒たちと何ら変わらぬ態度のままだった。「扉を押し開けるがいい。いやいや、何も恐れることはない。わし自身の命が掛かっておるのじゃ、なんで罠なぞ仕掛けるものか」

「そうとも、これに貴様の命が掛かっているんだ」とゴードンも残忍な口調で繰り返し、扉のそばまで近づくと、ほとんど転がるようにして馬から降りた。

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