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《コナン・ザ・コナン》ロバート・E・ハワードの世界
ロバート・E・ハワード作品
オリジナル翻訳


THE SHADOW KINGDOM by Robert E. Howard
陰影の王国
 キング・カル・シリーズ

《2.そして静寂の回廊は語る》

 月はいまだ昇りきっておらず、庭園は銀製の油壺から来る松明の火で明々と照らされている。西方諸島からの大使カ・ヌーが用意した卓を囲み、カルは玉座に身を置いていた。カルの右手に、ピクト族の長老カ・ヌーその人が座っている。あのような獰猛な民族の大使としては、およそふさわしからぬ風貌の持ち主であった。年輪を重ねた男、文官たちの策謀に揉まれて今日まで生きてきた賢明なる男――それがカ・ヌーであった。品定めでもするかのようにカルを見つめる瞳には、かの民族独特の憎悪は感じられなかった。部族に伝わるしきたりなどで、公正な判断力を曇らせるような男ではないのだ。文明国で過ごした文官との長い付き合いが、この男から部族のしがらみのようなものは吹き飛ばしていた。

 『このカルという男、どのような人物であろうか』いまこのとき、カ・ヌーの心の中でもっとも大事な関心は、そこにあった。あるいはまた、『この男、利用することは可能であろうか。できるとすれば、どのようにして――』という関心である。カ・ヌーという男、目的を果たすためならば、部族の中にある偏見をすら利用する男なのだ。

 カルはカルで、手短かなあいづちで会話を受け流す一方、カ・ヌーに視線を走らせていた。文明の波に揉まれることにより、ピクト族のような民族ですら、このような男を生み出すことができるものなのか――などと思案する。なぜといって、カ・ヌーは物腰やわらかにして、太鼓腹という風貌なのだ。この老人が剣を振り回すことをやめてから、数えきれぬほどの月日が地平線を駆け抜けていったことであろう。なるほど、この男は歳老いている。しかしカルは、カ・ヌーよりも年かさの男たちが最前線で戦う姿を見てきている。ピクト族は長命の民族であった。

 カ・ヌーの脇に立った美しい少女が、彼の酒盃に酒を注ぎ足した。彼女はせわしなく働いている。そうこうするうちにも、カ・ヌーは洒落やら何やらと火のように会話を続けていた。カルはひそかに彼の軽口を軽蔑していたが、さりとてカ・ヌーの鋭敏な酒落を快く思わぬものでもなかった。

 宴には、ピクト族の族長たちと文官たちが顔を見せていた。文官たちは、彼らなりの流儀ではあったが、陽気で安楽な雰囲気を漂わせている。そのほかには戦士たち――儀礼的に礼儀正しい素振りを見せてはいたが、明らかに彼らの部族特有の獰猛さを隠しきれずにいる。それでもなおカルは、嫉妬の念とともに、この場の奔放さ、気ままな空気を感じ取らずにはいられなかった。ヴァルーシア国宮廷と比べれば、その違いは歴然としていた。これに似た自由な空気は、アトランティスの粗雑な部落ではごくあたりまえのものだった。そう思うと、カルは我知れず肩をすくめてしまうのだ。結局のところカ・ヌーが、積年の慣習や偏見などは捨て、己がピクト人であることを忘れ去ったことは正しい選択だった。それは疑いようがない。してみれば、彼カルもまた、名実ともにヴァルーシア人になるきるよう努力すべきなのだろうか。

 月が天頂へと昇りつめる頃までに、カ・ヌーは、その場にいた他の男たちの三倍は呑み喰いに興じていた。やがて、さも満足そうなため息をつきながら寝椅子にもたれかかると、皆にいった。「友よ、そろそろお開きにしようではないか。わしは王と、子供らには無縁の事柄について話をせねばならんのじゃ。おお、そうじゃ、わしの愛しい娘子よ、そなたもさがるがよい――おっと、そのまえに、その宝石のような唇でわしに口づけしておくれ――そうじゃ、それでいい。では、優雅に立ち去るがよい、わが薔薇の花よ」

 白い顎髭の上で瞳を輝かせるカ・ヌーは、背筋をぴんと伸ばし、頑固そうにいかめしく座っているカルの様子をうかがった。

「カル王よ、御身は考えておるな」と、齢重ねた大使は唐突に口を開いた。「このカ・ヌーという男は使い道とてない歳老いた堕落者、益もなく酒をがぶ呑みし、田舎娘に口づけするより他にすることもない、とな!」

 それは実際、カルが心に抱いた考えとみごとに一致していた。あまりに図星を突かれたために、カル自身が驚いたほどである。しかし、その驚きは心のうちに隠しておいた。

 カ・ヌーはのどをごろごろと鳴らし、太鼓腹が歓喜でうち震えた。「さよう、たしかにぶどう酒は赤く、そして女子は柔らかい」そういう彼の声には、忍耐強さが感じられた。「したが――ハッ! ハッ!――この老カ・ヌー、大事な取り引きの妨げとなるほど、酒や女にうつつを抜かしてはおらんよ」

 彼は再び笑った。カルが落ち着かない様子で身体を動かした。この状況はまるで、狩りか何かのようではないか――王のよく光る瞳は、肉食獣の光を帯びて真っ赤に輝きはじめた。

 カ・ヌーは酒差しに手を伸ばし、己の酒盃を満たすと、苛立たしげに頭を振るカルを、探るような瞳で見つめた。

「いかにも」落ち着いた口調でカ・ヌーがいう。「強い酒に耐えるには、わしのような年寄りの頭が必要になる。カルよ、いかにもわしは歳をとった。じゃが、なぜ御身ら若い者たちは、わしら老人が見いだすささやかな喜びを毛嫌いするのじゃ? ああ、わしを見よ。よぼよぼで、しなびてしまった。友もいなければ、なんの喜びとてない身じゃよ」

 しかし彼の振るまいと表情とが、彼の言葉を裏切っていた。彼の茶褐色の肌は、さらにいっそう赤みを帯びている。白い顎髭が不釣り合いに思われるほど、瞳はきらきら輝いている。実際のところ、この男はこのうえなく陽気に見えるではないか――と、漠然とした憤慨を感じつつカルは思った。この歳老いた悪党めは、己の民族、カルの民族が備えているはずの、生まれながらの精悍さをまったく失っているように見える。それでもなお、この老人は、若かった頃のどの時代よりも、今というときをいっそう楽しんでいるように思われた。

「まぁ、わしの話に耳を傾けなされ、カル王よ」説諭じみたしぐさで指を立てながら、カ・ヌーがいう。「御身のような若者を褒め賛えることほど、危ういものはない。じゃが、そうもいっておられんわい。御身の信用を得るためには、わしは正直な気持ちを忌憚なく話さねばなるまいな」

「その方、もしも甘言を弄するつもりならば――」

「それそれ。誰がいつ、甘言のことなど話しおった? わしが甘言を弄するのは、探りをいれるときぐらいなものよ」

 それまでの怠惰な笑みとはうってかわり、カ・ヌーの瞳は冷徹な光を帯びて鋭くきらめいていた。彼には人物を見抜く力があった。

そしていま直面しているこの猛虎のごとき野性児に対しては、まさしく真正面からぶつかる以外、己の目的を果たす道はないことを覚っていた。この野性児ときたら、彼がどれほど言葉のあやを積み重ねて不実を覆ってみたところで、あたかも罠を嗅ぎ当てる狼のように、的確にそれを嗅ぎ当ててしまうことだろう。

「カル王よ、御身には絶大なる力が宿っておる」自国の評議の間で話すときでさえ、いまほど細心の注意を払って言葉を選ぶことはなかった。「御身をたぐい稀な真の王へと導く力じゃ。それはまた、ヴァルーシアの失われし栄光のいくばくかでも復活させ得る力でもある。むろん、ヴァルーシアがどうなろうとも、わしにはかかわりのないこと――おっと、たしかに女子と酒は絶品じゃがのう。わしが気にしておるのは、ヴァルーシアが栄えれば栄えるほど、我らピクトの国もまた栄えるであろうということよ。それにまた、御身のようなアトランティス人を王に戴くことは、ひいてはアトランティス地方をひとつにまとめることにもつながるというわけじゃ――」

 カルは激しく嘲りの笑い声を立てた。カ・ヌーは彼の古傷に触れたのだ。

「馬鹿を申せ。わしが富と名誉を求めて彼の地を飛び出してからこっち、アトランティスではこのわしの名は忌まわしいものとして囁かれておるわ。我が部族は――いや、いまとなっては赤の他人――彼の部族は、そなたもとうに知ってのとおり、〈七大王国〉にとっては旧来の天敵、われらの同盟にとって最大の宿敵といってもよい存在ではないか」

 カ・ヌーは顎髭を撫で、不可解な笑みを浮かべた。

「また、そのようなことを。そのような戯言は、きっぱりとうっちゃるがよい。何を語ればよいかは、このわしがちゃんと心得ておる。なんの益ももたらされぬことに気付けば、戦さもおのずと終わるはずじゃ。わしには、平穏にして繁栄このうえない世界が見える――人が人らしく、隣人を慈しむ世界じゃ。善きかな、善きかな。御身こそが、そのすべてを成し遂げることができる――それもこれも、御身が生き存えておれば、の話じゃがな!」

「なんだと!」カルは贅肉のない手で剣の柄を握り締めるや、半分腰を浮かせていた。そのあまりに素早い精悍な身のこなしは、カ・ヌーに突然の興奮を呼び起こし、彼の老いた血さえもが躍動を覚えずにはいられなかった。ある種の人間が血筋のよい馬を愛でるのに似て、このカ・ヌーという男、秀でた人物にめっぽう目がなかった。ヴァルカ神よ、さても頼もしき戦士かな! 鋼や炎の分身かと思える筋肉そして反射神経、それがまったき調和でみごとに結び付いておる。それに闘争本能。それらが重なりあったとき、かように恐るべき戦士を作りあげるものか。

 だがカ・ヌーは、そんな心のうちの熱意などはおくびにも出さず、相変わらずの穏やかな皮肉まじりの口調を保った。

「それまた、そのように。まずは腰を落ち着けよ。まわりを見回してみるがよい。庭園には人っこ一人おらず、この卓を囲むものもわしら二人きりではないか。それともなにか、御身はこのわしを恐れるとでもいうのかな」

 カルは玉座に深く身を沈めると、探るような目つきでカ・ヌーを見た。

「野蛮人のような振る舞いは控えるがよろしい」カ・ヌーは物思いに耽りながら、言葉をつづけた。「もしこのわしが御身を裏切りにかけるつもりならば、このような場所で、みすみす己に疑いがかかるような愚行を演じるわけがなかろう。はてさて、御身ら若者は、学ぶべきことがまだまだたくさんあるようじゃな。我が部族の族長のなかにも、御身がアトランティスの丘陵の出だというだけで、御身のことを快く思わぬ者がおる。御身もまた、心の奥では、このわしがピクト人じゃからというて毛嫌いしておるのであろう。困ったものよのう。カルどの、わしは御身を、あくまでもヴァルーシア国王として接しておる――西方の島々を荒し回った略奪者どもの先導者だったカルとしてではなく、な。そなたもまた、このわしを一人のピクト人としてではなく、国家の枠を越えた人間、国々を渡り歩く人間として接していただこうか。しからば王よ、さような人間として御身に聞こう! もしも御身が明日にも殺されるようなことになれば、いったい誰が後を継ぎ王位につくであろうな?」

「まず第一にはブラール男爵、カーヌーブであろう」

「さもあらん。したが、わしは数多のゆえをもって、カーヌーブの名を挙げることには異を唱えようぞ。なかでも重要なのは、やつばらは単なる傀儡にすぎぬということじゃ」

「なぜ、そのようなことを。あの男、わしにとっては一番やっかいな相手だぞ。あやつが己の野心以外の何かに忠誠を誓っているという噂なぞ、ついぞ聞いたことがない」

「夜の闇が、すべてをお見通しじゃ」カ・ヌーの応えは回りくどかった。「この世のなかにはな、もうひとつ別の世が潜んでおるのじゃよ。じゃがカル王よ、このわしのことは信じてもらって構わんぞ。それから〈槍の殺し屋〉ブルールもまた信頼のおける人物じゃ。これを見られよ」カ・ヌーは長衣の下から、翼ある竜が幾重にも巻きついた細工が施された金製の腕環を引き出してみせた。竜の頭部からは、紅玉であしらわれた角が三本突き出ている。

「これをよく目に焼き付けるのじゃ。明晩、ブルールが御身のもとを訪れるよう手はずを整えてある。そのとき身の証しとして、ブルールにはこの腕環を身につけて行かせよう。よいか、王よ、己を信ずるがごとく、このブルールという男を信用するのじゃ。なにごとにつけ、この男の指示には従うように。さて、我が信頼の証しとして、もうひとつ御身に見せておきたいものがある」

 といいながら、長老は獲物を狙う鷹のごとき敏速さで、長衣から何かを引っぱり出した。そのものが発する薄気味悪い緑の光が二人を照らし、次の瞬間、カ・ヌーはさっさとその何かを長衣のなかに戻してしまった。

「やっ、〈失われし宝石〉ではないか!」身を引かせながら、叫ぶカル。「〈蛇神の神殿〉から消えた緑の宝石! ヴァルカ神よ! そなたはいったい! それにしてもなぜ、そのようなものをわしに示すのだ?」

「すべては御身の命を救わんがため。そしてまた、我が信頼の証しとして。かりそめにもわしが御身を裏切るようなことあらば、同じ仕打ちを甘んじて受けようぞ。わしの命は、いまや御身の手のうちにあるのじゃ、カル王。わしは御身を、裏切りたくとも裏切れんのじゃよ。なぜといって御身こそ、我らが運命を握る人物なのじゃからな」

 そこまで言葉を続けると、この歳老いた悪童は陽気に微笑んだ。深く満足しているように見える。

「だがいったい、このわしがそなたらの運命を握っておるとはどういう意味なのだ?」とカル。戸惑いの色は隠せない。

「いま話したとおりの意味じゃよ。さて、御身もやっと、わしが不義を働くつもりなどさらさらないことは判ってもらえたようじゃ。では明晩、ブルールが御身の元を訪れたあかつきには、裏切りのことなぞ心配せずに、よろず彼の助言に従うように。よろしい、話はそれで終わりじゃ。外に控えた護衛の者に宮殿まで送りとどけさせよう」

 カルは立ち上がりながらも、「いや待て。肝心なことは何ひとつ聞いていないぞ」と言う。

「それ、それ。若者ときたら、なんとまぁ性急なことよのう!」カ・ヌーが今までに増して、いたずら好きな妖精のように見えた。「王よ、行かれるがよい。そして王座と権力と王国の夢でも見られよ。わしはわしで、酒と柔らかな女子たちやら、薔薇の夢でも見るとしようかいの。カル王よ、幸運が御身とともにあらんことを!」

 庭園を去りぎわ振り返ってみると、だらしない様子で寝椅子によりかかったままのカ・ヌーの姿が目に入った。この世のすべてのものに、陽気なまでの同胞意識を込めて微笑みを送っている――なんとも幸せな老人だ。

 庭園を出たところで、馬にまたがった戦士が王を待っていた。その男がカ・ヌーからの伝言を携えてきたあの男であると知り、カルはわずかながら驚きを覚えた。カルが鞍に身をゆだねる間も、そののち人気のない街道にひづめの音を響かせる間も、二人は口を閉ざしたままだった。

 昼間のうちの色彩と華やかさは、夜の不気味な静寂へと道を譲っていた。この都市の古めかしさは、銀に輝く三日月の下、いっそうの際立ちを見せている。大邸宅や宮殿の巨大な石柱は高く高く、星々のなかまでへもそびえているようだ。幅広の階段は、人影もなく静まりかえり、あたかも上層世界の影ひそむ暗闇のなかに溶け込むほど、果てしなく昇りつめていく。星々への階段か――カルは思いを馳せた。この場の薄気味悪いほどに壮大な光景が、カルの想像力豊かな心をさらに助長している。

 カツッ! カツッ! カツッ!

 月影を映した広い街道に、銀のひづめが音を響かせている。そのほかには一切の物音は聞こえてこない。この都市の齢、信じがたいまでの古めかしさ、それがカルにはうっとうしくてならなかった。静寂に包まれた巨大な建物らが、音もなく、人知を超えたあざけりを彼に送っているような錯覚すら覚えた。いったい、ここにはどのような秘めごとが隠されているのであろうか?

「汝はまだまだ若い」宮殿や寺院、神殿が語りかけてくる。「だが我らは長きに渡り存在してきた。我らが築きあげられし頃、この世は未熟な野蛮人に等しかった。汝も汝の仲間もうつろいゆく運命、だが我らは無敵、我らは不滅――。アトランティスやレムリアが海中より隆起するより前、すでに我らは奇妙な世のうえにそびえておった。やがて緑の海原が幾重ものため息となってレムリアの尖塔やアトランティスの丘々を呑み尽くし、西方の島々が奇妙な大陸の峰々へと姿を変えることがあろうとも、我らは変わらずこの世を支配し続けるであろう。

「この回廊を、いったいどれほど多くの王が馬走らせていったことか――そのすべてを我らは見守ってきた。汝アトランティスのカル、そなたがまだ〈生命創造を司る鳥〉カーの心に芽生えた夢ですらなかったときにまで遡っても、まだ足らぬ。駒進めよ、アトランティスのカルよ。幾多のものが汝のあとにつづくであろう。汝の前にも、また幾多のものが通り過ぎていった。誰も皆、儚き塵にすぎぬ。いつかは忘れ去られてゆく。だが我らはここに建ち、すべてを見つめ、存在し続ける。進め、進むがよい、アトランティスのカルよ。王たるカル、愚かなカルよ!」

 夜のしじまに溶け込む静かなひづめの音が、カルにはまるで、うつろな嘲りをこだましているように聞こえた。

「カル――王よ! カル――愚か者よ!」

 月よ、輝け! 汝、王の行く手を照らせ! 星よ、きらめけ! 汝、王の行進を導く松明たらん! 銀のひづめよ、高らかに鳴れ! 汝、ヴァルーシア全土に王来たりし先触れを為せ!

 ホー! 目覚めよ、ヴァルーシア! 王のなかの王、カル王のお通りじゃ!

「我ら、あまたの王を見てまいった」ヴァルーシアの静寂に沈む回廊は囁き続ける。

 宮殿にたどり着くまでの道すがら、カルはずっとむっつり物思いに耽ったままだった。宮殿では王の護衛をつとめる〈赤き殺戮隊〉の男たちが、王の帰りを待ち構えていた。彼らのうちの一人がカルの愛馬の手綱を受けとり、残りのものたちは休息部屋まで王の護衛に向かった。件のピクト人は、あいかわらず不機嫌そうに黙りこんだまま、ことを見届けるや荒っぽい手綱さばきで駒の向きをかえ、まるで亡霊さながら闇夜のなかに消えていった。極度に研ぎ澄まされていたカルの想像力は、〈古の世界〉から現われ出でた小鬼のごとく、ピクト人が静寂の街道を疾走していくさまを思い浮かべていた。

 宮殿にもどったのは、すでに夜明けちかくのことであり、その夜カルはまんじりともできず、その日の出来事を回想しながら〈玉座の間〉をうろうろとして過ごした。

 カ・ヌーは、核心については一言も触れなかった。ただ、カルの強靭な力に全幅の信頼を寄せていることは確かだ。それにしても、

ブラール男爵が単なる傀儡にすぎぬと言ったとき、彼は何を示唆していたのであろう? また、明晩、謎めいた竜の腕環をまとってカルを訪れるというブルールなる男は、いったい何者であるのか。いったいぜんたい、カルの周りで何が起こっているのだ? わけても判らぬのは、カ・ヌーがなぜ〈蛇神の神殿〉から盗まれて久しいといわれる、あの緑に輝く恐怖の宝石を示してみせたか、ということだ。あの宝石は、ぞっとするほどにおぞましい神殿の主たちのあいだでは、この世に戦禍をもたらす秘宝として崇められていたというが――。

 それにカ・ヌーの勇猛果敢な部族民ですら、カルの命を守りきれるかどうか判らぬとは、相手はいったい何者なのだろうか。しかし、それでもいまのところはカ・ヌーも、カルの身も安全であると考えているようだ――と、カルは考えた。なぜといって、あれほどの抜け目ない策士が、無駄に終わると判っているのに自ら首を突っ込むことはありえぬからだ。それとも、張り巡らした裏切りの罠へ、カルを無防備なまま放り込もうという魂胆ありや? なんらかのゆえあって、いまのところはカルを泳がせているだけなのか。

 考えたところで埒があかん――とばかり、カルは肩をすくめた。

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