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《コナン・ザ・コナン》ロバート・E・ハワードの世界
ロバート・E・ハワード作品
オリジナル翻訳


THE SHADOW KINGDOM by Robert E. Howard
陰影の王国
 キング・カル・シリーズ

《3.夜に徘徊するもの》

 剣の柄へ手を置いたまま、カルが窓辺へ歩み寄ったとき、月はまだ天頂へ昇りつめていなかった。窓は宮殿の広大な中庭に面して開かれている。香辛料の木々からの馨りをのせた夜のそよ風が、薄手の窓幕を微かに揺らした。王は屋外に視線をやった。歩道にも灌木のなかにも、人影は見当たらない。丹念に手入れを施された木々が、かさばった陰影と化していた。近くの噴水は、星明りのした銀色のかすかな光沢を放ち、また遠くの噴水は、こんこんと波紋を生み続けていた。警護兵も、この中庭まで足を伸ばすことはない。それもそのはず、外壁は厳重に警護されており、いかなる侵入者であろうとも、この中庭までたどり着くことはまず不可能であるとみられていたからだ。

 植物の蔓が、宮殿の壁をつたって渦巻いている。カルはぼんやりと、その蔦を使えば壁をよじ登るのも案外簡単かもしれぬ――と考える。すると窓の下にできた薄暗がりから、影の一片が剥がれ落ち、むき出しの褐色の腕が窓枠へと伸びてきたではないか。カルは思わず、大振りの剣をなかば鞘から抜きかけたが、すぐにとどまった。筋骨たくましい上腕部で、昨夜カ・ヌーに示された竜の腕環がかすかな光りを発していたのだ。

 腕の主は、まるで木を駆け上がる豹を思わす軽快な身のこなしで、その体を窓枠から部屋の中へと引き上げた。

「そなたがブルールか?」と尋ねたカルだったが、その言葉は困惑と疑いが入り交じった驚きで断ち切られた。やって来た男というのが、〈社交の大広間〉でカルがあざけりを送った男、ピクト族大使のもとよりカルと轡を並べたあの男だったからだ。

「おれがブルール、〈槍の殺し屋〉と呼ばれておる」押し殺した声でピクト人がこたえた。それからすぐに、カルの顔をしげしげと見つめると、ほとんどささやきに近い声でいった。

「カ・ナマ・カア・ラジェラマ!」

 カルはぎょっとした。「ハッ! いったいぜんたい、それは何のまじないだ?」

「判らぬというのか?」

「ああ、聞き馴れぬ言葉だ。いまだかつて耳にしたこともない、どこか異国の言葉のようだな。だが――ヴァルカ神よ!――どこであったか――どこかで聞いた覚えが、かすかに――」

「それでいい」ピクト人は短くこたえただけだった。彼の視線は、この部屋、王の〈執務の間〉をぐるりとなめて回った。いくつかの卓とひとつふたつの寝椅子、それに羊皮張りの文書を並べた重圧な書棚がある程度で、豪奢なまでの宮殿の他の部屋と比べると、かなり質素な感がした。

「教えてくれ、王よ。扉の警護には誰が当たっている?」

「〈赤き殺戮隊〉が十八人。そんなことより、そなた、どうやってこの部屋までやって来れたのだ? 闇夜にまぎれて庭園を通り抜け、宮殿の壁をよじ登ってきたというのか」

 ブルールは冷笑を浮かべた。「ヴァルーシアの警護兵など、このおれにかかれば盲の水牛にすぎぬわ。やつらの鼻っ面から恋人をかすめ取ることだってやってみせるぞ。そうとも、おれはやつらの只中を突っ切ってきたが、誰一人としておれの姿、おれの物音に気付くやつはいなかった。ああ、それに壁がどうとか言っていたな……蔓のなど借りずとも、たやすくよじ登れるではないか。このおれはかつて、海のもやが身を刺す東風となって吹き付けるなか、霧にけぶる海岸で虎を狩ったこともあれば、西海の切り立った岸壁をよじ登ったこともある。それより、おれの側に来てくれぬか――いや、そうじゃない、この腕環に触れてみてくれ」

 そう言いながら腕を差し出し、カルが不審な面持ちで言われたとおりにするや、安堵の溜め息を大きく洩らした。

「それでいい。さてと、そのような気取った長衣は、いまのうちに脱ぎ捨てておいたほうがよいぞ。御身は今宵、いまだかつてどのアトランティス人とて夢想だにしなかった出来事を体験することになるのだからな」

 ブルール自身は、小さめの腰布ひとつに、反りのある短めの剣をそこに差し込んでいるという出で立ちであった。

「王に命令するとは、そなたいったい何様のつもりだ?」わずかに憤慨した様子で、カルが反駁した。

「カ・ヌーがいわなかったか、何事につけおれの言葉に従うようにと」ピクト人は苛立たしげに、瞬間、瞳をぎらつかせながらこたえた。「おれは御身を好いてはおらぬ。だが、しばしのあいだ、遺恨のことは忘れようとおれは心に決めているのだ。御身もそうしたがよいぞ。とにかく、ちょっとこちらへ来てくれ」

 扉のある方へと部屋を横切るように、音を立てずにブルールは移動した。扉の隙間から、外の回廊の様子を窺った。おそらく、外から気付かれる心配はない。そこから外を見るようにと、ピクト人はカルを促した。

「何が見える?」

「警護の者十八人がおるだけだ」それを聞くとピクト人はうなずき、今度は自分の後について部屋の反対側に行くよう、カルに身振りで合図した。反対側の壁にある一枚の仕切り板の前でブルールは立ち止まり、しばらくごそごそと体を動かしていた。それから軽やかな身のこなしで後ろに下がるや、それと同時に腰の剣を抜き払った。仕切り板は音もなく滑り、そのあとにぽっかりと、薄暗い光に照らされた通路が姿を現わしたではないか。カルは驚きの唸りを発した。

「秘密の通路か!」小さく悪態をつくカル。「だがわしはまったく知らなかった! ヴァルカ神に誓って、このことに荷担したやつはただでは済まさぬ!」

「落ち着け!」ピクト人があわててたしなめた。

 ブルールはどんなわずかな物音も聞き逃すまいと、全身の神経を集中させ、青銅像のごとく身をかためている。彼のただならぬ様子にカルもまた毛が逆立つ思いがしたが、それは決して恐れからではなく、ある種の不吉な予感が彼をそうさせていたのだ。やがてブルールが合図を送り、彼らの前に出現した秘密の通路へと足を踏み入れていった。

 通路は装飾品のひとつもなくがらんとしていたが、しかし塵が積もっていないところをみると、明らかに最近まで使われていた形跡ありだ。ぼんやりとした灰色の灯りがどこからともなく洩れていたが、その光源は定かではなかった。少し進むごとに、カルは扉を目にした。それらはカルが知っているように外からはまったく気付かれぬものであるが、しかし秘密の通路の中からは容易に見分けることができた。

「宮殿とはまるで、蜂の巣のようだな」カルは低い声でぶつぶつとつぶやいた。

「まさに、そのとおり。王よ、昼といわず夜といわず、御身は見張られていたのだ――数え切れぬほど多くの目でな」

 王は、ブルールの身のこなしに少なからず感銘を受けはじめていた。ピクト人は前傾姿勢を保ち、低く構えた剣を前方に差し出しながら、ゆっくりとした歩調で慎重に足を進めていく。話すときも囁くように声をひそめ、絶えず左右に視線を投げかけている。

 通路は唐突に、曲がり角にぶつかった。ブルールが慎重に角の向こう側を窺った。

「見るがいい」と彼が囁いた。「だが、忘れんでくれ! 声を出すんじゃない。物音も立てるな――命が惜しくばな!」

 カルは躊躇しながらも、ブルールの肩越しに様子を窺った。ちょうど角をまがったところで、通路は階段へとつながっている。それから急に、カルはあとずさった。階段の下に、今宵〈執務の間〉の警護に当たっていたはずの〈赤き殺戮隊〉の要員十八名が横たわっているではないか。ブルールが王のたくましい腕を掴み、あるいは肩越しに荒っぽい囁きを送ってよこさなかったら、カルは思わず階段に向かって飛び出していたことだろう。

「落ち着け、カル! ヴァルカ神の御名にかけて頼む、落ち着くんだ!」ピクト人の叱責が飛んだ。「いまはこの通路に人の気配はない。とはいえ、この場所を御身に示すことでおれは、かなり危ない橋を渡っているんだぞ。そうでもせねば、御身はおれの言うことなど信じようともせぬからだ。さあ、では〈執務の間〉に戻るぞ」ブルールは来た道を引き返し、カルもそれに従った。カルの心のなかでは、当惑の念が渦をまいていた。

「裏切りだ」鋼のような灰色の目をくすぶらせながら、王はぶつぶつとこぼした。「卑劣で、しかも手際が良すぎる! あの男どもが警戒に立っている姿を目にしてから、まだほんのわずかな時しか流れておらぬではないか」

 〈執務の間〉に戻ると、ブルールは今度もまた慎重な手つきで隠し扉を閉じ、回廊に面した扉の隙間から外の様子を窺うようにとカルに身振りで促した。カルは思わず喘ぎ声を洩らす。なんと扉の外では、十八人の警護兵が以前と変わらぬまま立ちつくしていたのだ!

「幻術の為せる業か!」と彼、剣をなかば抜き身にしながら囁いた。「死者どもが王の警護に当たっておると?」

「そのとおりだ!」ほとんど声にならぬ返答が、ブルールから返された。ピクト人のぎらぎら光る瞳のなかに、えも言われぬ色合いが浮かんでいた。二人は瞬間、互いの瞳を真直ぐに見つめあった。ピクト人の計り難い顔色を読もうと躍起になっているのであろうか、カルの眉間に皺がより、当惑に満ちた渋面をかたどった。

 やがてブルールの唇が、ほとんど動くことなく、ある言葉をつむぎ出す。

「人語を――操る――蛇!」

「皆まで言うな!」囁きながらもカルは、思わずブルールの口を押さえ込んでいた。「それは死をもたらす言葉だ! 呪われし名だ!」

 ピクト族の恐れを知らぬ瞳が、そらされることなくカルを凝視した。

「カル王よ、いま一度、確かめてくれ。ことによったら、警護の者たちは交代しているのかもしれぬぞ」

「いや、確かに前と同じ男どもだ。ヴァルカ神の名にかけて、これは幻術に違いない――狂気の沙汰だ! わしがこの目で、やつらの体が横たわっているのを目撃してから、まだほんのわずかな時間しか流れておらぬ。だのに扉の外では、前と同じ様子でやつらが警護にあたっているではないか」

 ブルールは扉の側から身を離した。無意識のうちに、それに続くカル。

「王よ、御身は己が支配しているこの国について、いったい何を知っている?」

「多くのことを。――とはいえ、それでもまだ何も知らぬに近い。このヴァルーシアには想像を絶する長い歴史がある」

「そのとおりだ」ブルールの瞳に、奇妙な光が宿った。「〈七大王国〉と比べれば、おれたちなどまだまだひよっ子、まさしく野蛮人にすぎん。この国の民ですら、己の国の古さを正しく理解している人間はおらんはずだ。人々の記憶やら歴史家の残した歴史書のたぐいやら、いずれも遠い古の時までは教えてはくれぬ。最初の人間が海からはい上がってきて、この海岸に街を築いた頃を知るには、とてもじゃないが不十分だ。しかしカルよ、これだけは言える。人間は、常に人間によって支配されてきたわけではないのだ!」

 王はぎくりと体を硬くした。二人の視線が絡みあう。

「そういえば、我らの部族に受け継がれてきた言い伝えがある……」

「我らの部族にもだ!」ブルールが割り込んだ。「そう、それはまだ、我ら島の民がヴァルーシアとの同盟を結ぶ以前のことだった。あれはそう、我らピクト族が戴いた七人目の酋長、〈獅子の牙〉の御世のこと。今よりどれほど過去のことなのか、何人たりとも言い表せぬ、それほど長い年月を隔てた時代の出来事だ。

 陽沈む島より海路を渡り、アトランティス沿岸を避けるようにして、我が部族の祖先はこの地にやって来た。そしてヴァルーシアの海岸に、炎と剣がもたらされたのだ。そうだ、長く伸びる白い海岸には、槍が相打つ音がこだました。城塞は燃え盛る炎に包まれ、そのさまは闇夜を昼間のごとく照らしたという。人々の記憶に微かに残るその日、一人の王が、ヴァルーシアの王が、赤く染まった海岸で戦いに斃れた……」ブルールの声は次第に小さくなり、やがて途切れた。二人は互いを凝視したまま、どちらも話を続けることだできない。それからほぼ同時に、二人が頷きあった。

「ヴァルーシアは古き王国だ!」カルがささやく。「ヴァルーシアがようやくその礎を築きはじめた頃、アトランティスやムーの丘陵はといえば、海に浮かぶ島々でしかなかったという」

 開け放たれた窓を通して、夜の微風が静かな音とともに流れてくる。その夜風は、ブルールやカルが故国で馴れ親しんだ、あの気ままにして新鮮な海風では決してない。その夜風はまさに、過去からの囁きにも似た呼吸。麝香やら、人々から忘れ去られてしまった何物かの香料、この世がまだ若かりし頃、すでにして歳ふりていた秘密の囁き……そんなものどもをたっぷりと含んだ夜風であった。

 壁掛けがさらさらと音を立てる。カルは唐突に、己が神秘的な過去の世から脈絡と受け継がれ来し、人知を超えた賢明さの前に裸のまま引き出された子供のように感じられた。またいつものような、現実感が喪失していく眩暈がカルを襲っていた。カルの心の奥底に薄闇に包まれた巨大な亡霊が入り込み、なにか奇怪な考えを彼に吹き込んでいるような錯覚を覚える。

 ブルールもまた同じような空想に捉えられていることに、カルは気付いた。ピクト人の瞳が、凄まじいまでの熱意を込め、カルの表情を窺っている。二人の視線が絡み合った。カルはこのときはじめて、因縁の部族に族するこの男との間に、暖かな友情を感じていた。長き年月が育んだ想像を絶する勢力が共通の敵となり、今まさに二人の野性児が、それはあたかも狩人に追われ窮地においやられた二匹の豹のごとく、互いの結び付きをしっかと感じ取ったのである。

 ブルールが再び、隠し扉の奥に潜む通路へカルを誘った。通路に足を踏み入れたときも、薄闇の通路をくだるあいだも、二人は物音ひとつ立てなかった。二人は今、最初に進んだのとは反対の方向に足を運んでいた。しばらく進んだのち、ピクト人は立ち止まり、秘密の扉のひとつに体を寄せた。そしてカルに、外側からは全く気付かれない隙間を通して様子を窺うよう指示を出した。

「ここは、〈執務の間〉の扉へと向かっている階段だ。だがこの階段は、普段ほとんど使われておらん」

 二人がそのまま見張りを続けていると、やがて足音も立てずに階段を上がり、ひとつの人影が静かに現われた。

「ツゥではないか! 王室宰相だ!」カルが叫んだ。「このような夜更けに、しかも抜き身の短剣を手にしておる! 何が起こっているのだ、ブルールよ?」

「暗殺だ! 胸くそが悪くなる裏切りだ!」ブルールの声には、相手を黙らせようとする響きがあった。それからカルが扉を振り開けて前に飛び出そうとするのを見て、「いかん! ここでやつに出会っては我らに不利だ。階段の下に、やつ以外にも潜んでいるかもしれんからな。戻るぞ!」

 二人はなかば走るようにして、もと来た道筋をたどった。隠し扉を潜り抜け、慎重な手つきで後ろ手にそれを閉じるや、ブルールは部屋を横切り、普段滅多に使われなくなった小部屋の入り口に向かった。小部屋の薄暗い片隅には壁掛けが掛けられており、そのうちの一枚を脇に振り上げ、カルを引っ張るようにして二人その後ろに身を隠した。そのままいくばくかの時がのろのろと流れる。カルは、もう一方の部屋で、微かな風が窓幕を揺らしている音を聞き取ることができた。それはあたかも、亡霊たちの囁きのように感じられた。

 やがて扉が開かれ、宰相ツゥがひっそりと姿を現わした。ツゥが〈執務の間〉を物色し、そこがもぬけの殻であると知るや、獲物が隠れている可能性がもっとも高いこの小部屋へやってきたことは疑いの余地はない。

 ツゥは短剣を振り揚げたまま、音もなく歩いている。束の間、立ち止まり、見た目には人のいる気配もない小部屋のなかを見回した。小部屋にはろうそくが一本あるきりで、淡い光に包まれている。彼は明らかに王の姿が見えぬことに戸惑いを感じている様子で、用心深く足を運んでいる。彼が二人の隠れ場所の前に立った、そのとき――

「殺れ!」ピクト人が鋭く囁いた。

 ただ一度の素晴しい跳躍で、カルは部屋の真中へと躍り出た。すかさず振り返ったツゥであったが、しかし猛虎を思わす目も眩まんばかりの瞬発力を伴ったカルの攻撃は、防御や反撃の隙を与えなかった。剣の鋼が薄光りのなかできらめき、骨のきしむ音とともにカルの振り降ろした剣がツゥの肩口へ深々と食い込み、ツゥは背中から崩れ落ちた。

 カルは不機嫌そうな面持ちで、殺戮に酔った唸りとともに歯をむき出し、冷たき深海の如き灰色の氷に似た双眼の上では、太い眉がひそめられていた。ところがしばらくすると、彼は突然ぽろりと剣を落とし、死神に背筋を掴まれた人間のように後退り、身を震わせ、足元すらおぼつかない様子になった。

 それというのも、カルの目前でツゥの表情が突然奇妙にぼやけ、実体を失っていったからである。およそありえべかざる動きのなかで、目も鼻も口もすべてが渾然と混じり合い、ひとつに解け合っていく。やがて霧の仮面が薄れゆくようにして顔の表情が突然消えうせるや、その下から大きく口が裂け、おぞましい目をした怪物のような蛇の頭が現われたのである。

「ヴァルカ神よ!」玉の汗を額から滴らせて、カルは喘いだ。そして「ヴァルカ神よ!」と繰り返す。

 ブルールが身をかかめた。その表情は動じた様子もない。とはいえ、彼の光りを帯びた瞳にも、カルの恐怖のなにがしかは反映しているように見えた。

「王よ、まずは剣を収められよ」彼は言う。「これより先も、それの出番があろうからな」

 ためらいがちに、カルは柄に手を伸ばした。そのとき足元に横たわっている恐怖の代物に己の足触れ、カルは全身の毛がよだつ思いがした。のみならず、どこかの筋肉が痙攣でも起こしたのであろうか、その生き物の口が突然恐ろしげに開かれたものだから、カルは思わず吐き気をもよおし、体の力が抜けていくようにして後退った。だが、そんな己自身に憤りを感じたのか、カルは気を取り直して剣を掴みあげ、それまでよりも注意深い目付きで、かつて宰相ツゥであったこの名もなき生き物をしげしげと観察した。爬虫類じみた頭部を除けば、それ以外の部位は人間の特徴を備えている。

「蛇の頭を持った人間か!」カルが囁いた。「ということは、こやつは蛇神に仕える神官なのか」

「いかにも。本物のツゥ殿は今ごろ、何も知らずにぐっすりと眠り込んでいることだろうな。この魔物どもときたら、思い通りのものに姿を変えることができるのだ。奴らはそれを、魔法の呪文だか何だか、そのようなものを使い、あたかも役者が仮面を付けるかのごとく、己らの顔に魔法の糸のようなものを振りかけて成し遂げるそうだ。そうすることで、何でも好きなものに化けることができるという」

「では、古くからの伝説は本当だったのだな」物思いに沈みながら王が言う。「囁かれることさえほとんどなくなってしまった古からの不気味な言い伝えは、神を冒涜する者のように死に絶えてしまったと思っていたが、あれは決して空想ではなかったのか。ヴァルカ神に誓って、わしもそんなことに思い巡らせたことがあった。それについて、あれこれと推理を働かせたこともあった。だが、どう考えても正気の沙汰ではない。ハッ、では扉の警護に当たっておる護衛の者どもも……」

「奴らも蛇人間だ。……待て! どうするつもりだ?」

「殺すに決まっておる!」歯の間から絞り出すようにカルはこたえた。

「そんなことをすれば身の破滅だぞ」ブルールが言う。「扉の外に立つのは十八人だが、おそらくはそれと同じほどの仲間が、回廊のどこかに潜んでおるはずだ。聞いてくれ、王よ。この陰謀を見抜いたのは、カ・ヌーだ。長老の放った密偵の一人が、蛇神の神官たちの懐深くに潜入し、やつらに陰謀の計画あることを持ち返ったのだ。それにカ・ヌーは、だいぶ以前よりこの宮殿にある秘密の通路を発見していた。それで彼の命を受け、このおれが通路の見取図を作っていたのさ。おれが今宵、御身の命を守るためにここに遣わされたのも、そのためなのだ。御身がこれまでのヴァルーシア王らのように殺られることを阻止するためにな。

 おれが今宵、ここに単身やってきた理由は、多勢で来るとなれば御身があらぬ疑いをかきたてるに違いないと踏んだからよ。しかも人数が多ければ、おれがしたように宮殿のなかに忍び込むことは難しかっただろう。

 既に御身は、邪悪な陰謀を実際目のあたりにした。蛇人間どもが扉の警護に当たり、それからこやつ、こいつがツゥ殿を装い、宮殿の好きな場所をどこなりともうろついていた。神官どもがことを仕損じたときは、朝には本当の警護兵たちが彼らの配置された場所に戻されることになっているのだ。何も知らず、何も覚えておらずにな。一方、神官どもの計略が成功したあかつきには、すべての責任は警護兵たちに降りかかることになっているのだ。だが、そんな話は後回しだ。おれがこの死骸を処分してくるあいだ、御身はここで待っていてくれ」

 そう言い残すと、ピクト人はおぞましいばかりの死骸を無造作に担ぎ上げ、先刻とは別の新しい隠し扉を越え消えていった。一人取り残されたカル、その心中ではさまざまな思考がぐるぐると渦まいていた。蛇神に忠誠を誓った神官どもが、いったいどれだけの数、この都のなかに紛れ込んでおるのだろうか? 真の人間と偽者とを、いったいどのようにして見分ければよいというのだ? ああ、彼が信頼を寄せている参議たち、将軍たち、そのうち何人が真の人間なのであろうか? いったい誰を――誰を信頼すればよいというのか?


 隠し扉が内側に揺れ動き、ブルールが部屋へ入ってきた。

「早かったな」

「ああ」ピクト人戦士は何やら床をじろじろ見ながら、歩を進めている。「敷物の上に血痕があるではないか。見えるか?」

 カルが身を屈めた、ちょうどそのとき、彼の視線の端が、ぼんやりとした動きを捉えた。鋼のきらめきだ。解き放たれた弓のごとく、カルは体を垂直に跳ね起こし、そのまま体を上方に突進させた。ピクトの戦士は自らが床に落とした剣の上へ倒れ、そのままぐったりと動かなくなった。この期に及んでなお、カルの脳裏にあったのは、彼の部族の常套手段である下から突き上げるような攻撃の前に、この裏切り者が死に至ったのは当然の報いであるとの残忍な考えであった。

 そのままブルールは剣から床へ大の字に滑り落ち、ぴくりともしなくなった。すると、その顔が溶け、次第にぼんやりと薄れていくではないか。カルが息をのみ、その髪を総毛立たせる前で、人間の顔は消失し、あとには死してなお悪意に満ちた玉のような目を持ち、顎をおぞましくもガッと開いた大きな蛇の顔が出現した。

「この男もまた蛇の神官であったか!」王が喘ぎながら言う。「ヴァルカ神よ! このわしを警護の者から引き離すために、なんと手の込んだ陰謀を仕組んだことよ! ではカ・ヌーは、彼はどうなのだ? 昨夜わしが庭園で語った相手は、本物のカ・ヌーだったのだろうか? 全知全能の神ヴァルカよ!」それから更におぞましい考えをが思い浮かび、カルは全身の毛がよだった。「ヴァルーシアの民は人間なのだろうか……それとも、彼らもすべて蛇人間なのか?」

 混乱した思いを抱いて立ち尽くすカルであったが、ブルールに化けていた化け物が今はもう竜の腕環を身に付けておらぬことがなんとなく目に入った。そのとき物音がし、彼が振り返ると……

 ブルールが、隠し扉を通ってやってくるところだった。

「はやまるな!」剣を拾おうとする王を制するように振り上げられた腕で、竜の腕環がかすかな光を発している。「ヴァルカ神よ!」ピクト人はしばし、動きをとめた。それから、残忍な笑みに唇が歪められた。

「大海原の神々に誓って! この悪魔らめ、悪智恵を働かせすぎたようだな。おそらくこいつは通路のどこかに潜んでおって、おれが仲間の死骸を運ぶ姿を見るや、急ぎおれの姿に化けたに違いない。では、おれにもうひと仕事できたというわけだ」

「そこを動くな!」カルの声には、死をも招きかねないほどの威嚇が込められていた。「わしはこれまで、二人の人間が目の前で蛇に姿を変えるさまを目にしてきた。その方が本物の人間であると、いったいどうして信じることができよう」

 ブルールは笑いを返した。「理由は二つある、カル王。ひとつには、奴ら蛇人間どもは決してこれを身につけることはない」と、彼は竜の腕環を示した。「もうひとつの理由は、奴らはこの言葉を口にすることができないということだ」そしてカルは、再びあの奇妙な呪文を聞かされた。「カ・ナマ・カア・ラジェラマ」

「カ・ナマ・カア・ラジェラマ」カルは無意識のうち復唱していた。「ヴァルカ神の御名にかけ、以前どこかでこの言葉を耳にしたような気がするのは、いったいなぜだ。聞いた覚えなどないはずだ! だがしかし……しかし……」

「そうだ、カル王、御身は記憶にあるはずだ」ブルールが言う。「記憶の奥の薄暗い回廊に、この言葉は潜んでいるのだ。確かに今世では、御身はこの言葉を耳にしたことはないかもしれぬ。だが遠い遠い過去の時代、決して滅びることのない魂の中に、この言葉が焼き付けられたのだ。御身が百万年もの時を超え生まれ変わろうとも、この言葉は常に御身の記憶に微かな弦を打ち鳴らすだろう。

 それというのも、この言葉は数え切れぬほどの長い世紀を遡る過去の世、厳しくそして血に彩られた時代を超えて密かに受け継がれてきたのだ。この言葉はな、人類が〈古き世界〉のおぞましい生き物との戦いを繰り広げていた当時、人類たちの間での合言葉だったのだ。というのも、本物の人間だけが、この言葉を口にすることができるからなのだ。人間以外のどの生き物も、顎や口の作りが奇妙に異なるため、この言葉を口にすることはできぬ。この呪文の意味するところはもはや忘れられてしまったが、言葉そのものは今に受け継がれてきた」

「その通りだ」カルが言った。「わしも伝説を思い出したぞ……ヴァルカ神よ!」彼は束の間立ち止まり、唐突に周りを見回した。それはあたかも、神秘の扉が音もなく大きく開け放たれたかのごとく、霧にけむった計り知れぬほど遠い意識の深淵に手が届いたような感覚だった。その瞬間、カルは今世と前世との間の広大な隔たりを通し、過去を振り返っている己に気付いた。もやもやとした亡霊のような霧を通し、死が満ち溢れていた時代のおぼろげな姿を感じとることができた。……醜悪な怪物と人間との戦い、おぞましい恐怖に満ちた惑星の征服。一瞬たりとも同じ形をとどめぬ灰色に染まった背景のなかに、悪夢じみた奇怪な情景、狂気と恐怖に満ちた空想世界がうつろいゆく。そして人類……神々の戯れ、塵から生まれ塵へと還る者の盲目の愚かな努力、血塗られた長き運命の痕跡の繰り返し、理由とて知らず、野獣のようにさまよい歩き、大きく育った残忍な子供のように、それでいてどこかに神聖な炎のきらめきを秘めて……。カルは額を手で拭い、身を震わせた。このような記憶の深淵からの光景には、カルはいつも驚かされる。

「奴らは姿を消していった」とブルールが、まるでカルの秘めた心を見透かしたかのように言った。「鳥女、翼人間、蝙蝠男、空を舞う悪霊、狼人間、悪魔、小鬼……我らの足元にいま横たわっている奴の仲間と、狼人間が細々と生き存えている以外は、な。長く、そして恐怖に満ちた戦いがあった。それは流血に彩られた時代を通し、永遠とも思えるほどの長きに渡った争いだった。猿人という境遇のなかより最初の人間が登場し、当時の世の支配者への反抗を開始したときから続く戦いだ。そして遂には人間が世界を征服するに至ったわけだが、長い世代をくだった今となっては、すべてはおぼろな伝説になってしまった。

 蛇人間どもは最後の最後まで抵抗を示したが、やがては奴らも人間に征服され、この世の果ての未開の地へと駆逐されていったのだ。賢者が語るところによれば、奴らはその地で本物の蛇に同化していき、いつしかこの邪悪な種族は絶滅したという。だが、人間がいにしえの争いを忘れてしまい、軟弱なまでに堕落し果てたときを待って、あの化け物どもは悪賢くも戻ってきおったのだ。ああ、今度の戦さは、残忍でありながら密やかな戦さとなった!

 〈新しき世界〉の支配者となった人間のなかに、奴ら〈古き世界〉の化け物どもが紛れ込んできたのだ。奴らは恐ろしいまでの智恵と魔術とを駆使し、何にでも好きなものに姿形を変え、密かに悪道の限りを尽くしてきたのだ。誰が本物の人間で、誰が偽者なのか、何人も見分けることができなかった。誰も他人を信用できなくなった。だがやがて、人々は自らの智恵をしぼり、偽者と本物とを区別する術を見い出した。蛇にとっては最大の天敵であった太古の時代の怪物――翼を持つ恐竜、すなわち空飛ぶ竜の紋章が、人間である証しとして用いられるようになった。それとともに人間が合言葉として使ったのが、おれが御身に語ったあの呪文だ。それというのも既に話したように、本物の人間だけがあの言葉を口にすることができるからなのだ。

 ここに至って、我ら人間は再び勝利を収めた。だが性懲りもなく、忘却の月日が流れたのち、奴らはまたも戻ってきた。それもこれも、人は誰も、己の目で見たこともないものなど直ぐに忘れてしまうからで、我ら人間もまだまだ猿と変わらぬようだな。こたび奴らは、神官に成り済ましてやってきおった。富と権力にどっぷり浸かった人間は、古の宗教や崇拝への信仰心など、とうの昔に失ってしまった。そんなことだから奴ら蛇人間どもが、より真理を追及した新興教団の導士を装い、蛇神を崇拝するおぞましい宗教をうち立てる結果を生んでしまったのだ。

 奴らの勢力は今や絶大なものとなり、蛇人間にまつわるいにしえの伝説を口にすることは、今や死を意味するようになってしまった。一方では、新しい形をまとった蛇神に人々は再びぬかずいておる始末だ。奴らの支持者たちときたら――盲信的な愚か者たちめ――蛇神の教団と、永遠とも思える過去の時代に人間が打ちのめした種族との関係を、いささか気付かずにおる。神官として、今や蛇人間がぬくぬくとこの王国を牛耳っているのだ。それどころか……」ブルールはそこで、言葉を切った。

「続けてくれ」カルは己の頭皮の上で、短く刈った髪がわけもなくざわめくのが感じられた。

「……奴らは王に成り済まし、このヴァルーシアを支配し続けておるのだ」ピクト人の声は囁き声になっていた。「むろん奴らとて戦いのうちに斃れれば、蛇の姿に戻って死ぬことになる。そう、それはちょうど我らの部族が〈七大王国〉を荒しまわった時代、〈獅子の牙〉の槍に貫かれ、赤く染まった海岸に斃れた王のようにな。だがカル王よ、そのようなことが、なぜ起こり得ると思われる? それらの王とて人間の女から生まれ落ち、人間として育てられてきたはずであろう? そのわけは、本物の王が秘密裏に殺されているというわけなのだ。今宵まさに、御身が暗殺されかけたようにな。とにかく、そのようにして蛇神に仕える神官どもが王の代わりとなって国を支配してきたのだ――誰にも知られることなくな」

 カルは歯の間から、罵りの声を上げた。「確かに、有り得ん話ではない。今までに蛇神の神官の姿を見て無事だった者は一人としておらぬことは、広く知れ渡った事実だ。きゃつらめ、この上ない秘密のなかで生き存えておるわ」

「〈七大王国〉の内政は迷路のように入り組んでいて、まるで怪物のようなものだな」ブルールが言った。「本物の人間のなかにもまた、自分たちのなかに蛇神の手先が紛れ込んでいることに気付いておる者がいる。気付いていながら、蛇どもと結託している輩がおるのだ。たとえばブラール男爵カーヌーブのような人間がそうだ。奴らの復讐が振りかかることを承知で、敢えて陰謀を暴こうという者など誰一人としておらぬ。誰も仲間を信用せず、賢い文官であれば、互いの胸の内をすべて明かすような真似はせぬだろうな。奴ら文官どもがもう少し信頼の置ける人間になり、蛇人間の真の姿か、そうでなくばきゃつらの陰謀のひとつでも皆の前に暴露することができれば、蛇神の勢力は半分以上打ち砕かれたも同然なのだが。そうなれば裏切り者どもを駆逐せんがため、すべての同盟国が一致団結し、共通の敵と相まみえることができるのだ。一人カ・ヌーだけが、奴らに立ち向かうだけの鋭敏さと勇気とを十分に備えていると見てよいだろう。しかしそのカ・ヌーでさえ、何らかの行動を起こすであろうという奴らの陰謀の一端を突き止め、それをおれに伝えるのが精一杯だった。その陰謀の実体については、御身が今宵体験したとおりよ。

 しかし、どうやらことは、おれの想像していた以上に進んでいるようだ。これより先は、己の運と技倆だけを信じて行動せねばならぬぞ。当面この場は、ひとまず安全だろうとおれは思う。扉の外におる蛇人間どもは、本物の人間が不意に来るようなことがない限りは、自分たちに与えられた役割以上の行動には移らぬだろう。しかし夜が明ければ、奴らはきっと次の行動を取ってくるはず。そのことは御身も胆に命じておいたほうがよかろう。奴らがどんな手を使ってくるかについては、誰も――カ・ヌーでさえも――知り得ぬことよ。だからカル王、我ら二人は常に互いの側を離れず行動せねばならん。我らが勝利を得るか、それとも二人がともに斃れるか、ふたつにひとつだ。さてと、とりあえずはこの死骸を片付けねばならんな。前の奴の死骸を運んだ隠し場所まで運んでいくので、おれと一緒に来てくれ」

 ピクト人はおぞましい荷を担いで隠し扉を通り抜け、薄暗い通路をくだっていく。カルがそれに続いた。荒野を静寂のうちに行動することに慣れている二人の足は、一切の音をたてない。亡霊さながら、二人はおぼろげな光のなかを滑るように進んでいく。その間にもカルは、この通路に敵が潜んでいないというのは信用できる情報なのかと考えていた。曲がり角に差し掛かるたび、恐ろしい幽霊か何かのなかに飛び込んでしまうのではないかとの予感に襲われた。

 やがてある疑惑が、彼の心にまたもやこみ上げてきた――このピクト人は、敵が待ち伏せしている場所へとカルを誘い込んでいるのではなかろうか? 彼はブルールの一、二歩うしろに身を置いて、ピクト人の無防備な背中にいつでも剣を降り降ろせる体勢を維持した。もしもブルールが裏切りを働くつもりだとしたら、最初に死ぬのは当のブルールになるだろう。ピクト人は、そんな王の疑惑に気付いているのかいないのか、いずれにせよ己が疑われているなどという素振りはまったく見せていない。大胆な足運びでずんずんと歩を進めていく。やがてたどり着いたのは、使われなくなって久しい埃舞う部屋で、内部には黴の生えた壁掛けが重々しげに掛けられている。ブルールは、そのうちのひとつを脇に振り上げ、背後に死骸を隠した。

 それから二人が、もと来た道を戻ろうと向きを変えた、ちょうどそのときのこと、突然ブルールが動きを止めた。それは彼が気付いているよりずっと、死に近い行動であった。なぜといって、カルの神経は既に緊張の限界に達していたからである。

「何かが通路で動いた」ピクト人が鋭い調子で言った。「確かにカ・ヌーは、この通路に敵の姿はないはずだと言っていたのだが……」

 彼は剣を引き抜くと、用心深く通路に忍び入り、カルがそれに続いた。

 通路を少し進んだあたりに、ぼんやりとした奇妙な光が現われ、やがて二人に向かい近付いてくる。飛び出ることもままならず、二人は通路の壁を背にして待ち構えた。それが何であるかは依然謎のままであったが、ブルールが歯の間から息を洩らしている様子を目にして、カルはブルールへの信頼を回復させていた。

 謎の光は徐々に、陰影に包まれた形状へと変化を遂げていく。その形状は、漠然と人間のそれのようにも見えぬことはないが、しかしそれは霧に包まれた幻のようで、霧の切れ端のようでもあり、接近するに従いより一層明瞭になってくるとはいえ、依然完全な物質と呼べる代物ではなかった。その中からひとつの顔が、二人を見つめていた。それは一対の光り輝く大きな眼で、数百万世紀ものあいだ拷問を科せられ続けた色合いを秘めていた。そのおぼろにして疲れ切った顔立ちに、深い苦痛より他に感情は現われていない。そしてその顔は……その顔は……

「全知全能の神よ!」氷の手で魂を握られたかのごとく、カルが囁いた。「あれはヴァルーシアのかつての王イーラルだ。だが千年も昔に死んだはずだぞ!」

 ブルールもまたできうる限り身を引かせ、細い眼を純真な恐怖できらめきを伴い見開き、握り締めた剣は小刻みに震えている。この薄気味悪い事件が連続した夜、彼が初めて見せる狼狽した姿だった。カルは直立不動で、挑戦的に立ち尽くした。本能的に、役に立たぬかもしれぬ剣を構えた。体にはぞくぞく寒気が走り、髪はちくちくと総毛立った。それでもなお王のなかの王として、生身の勢力に立ち向かうとき同様、この未知の死の力からの挑戦を受けて立つ心づもりでいるのだ。

 亡霊は彼らには一切注意を払わず、真直ぐに通りすぎていった。その者が通りすぎるとき、まるで極寒の雪を含んだ微風のような息を感じ、カルは思わず後づさった。亡霊は音も立てずにゆっくり直進しており、そのさまは、あたかも時を重ねた足枷がそのおぼろげな足の上にのしかかっているかのようである。通路の角を曲がり、その亡霊は姿を消した。

「ヴァルカ神よ!」額から吹き出た冷たい玉の汗を拭いながら、ピクト人がぶつぶつとこぼした。「あれは人間ではなかった! あれは亡霊だ!」

「そうとも!」混乱をうち払うかのように頭を振りながらカルがこたえる。「そなたはあの顔を見なかったのか? あれは一千年もの昔、このヴァルーシアを治めていたイーラル王だ。王は〈玉座の間〉で、おぞましい姿で殺されているのを発見されたのだ。今その部屋は〈呪いの間〉と名付けられておる。そなた、〈諸王を賛える間〉でイーラル王の像を見たことはないのか?」

「そうだ、おれも今思い出した。神よ! カル、これでまたひとつ、蛇神の神官どもの恐ろしくも汚れた力を示す証しができたというわけだ。あのイーラル王は神官どもに暗殺されたに違いない。それゆえ、かの王の魂は奴らの奴隷に成り果ててしまった……未来永劫、奴らの命に従うためにな! 蛇人間に殺された人間は、亡霊となってなお奴らの奴隷の務めを果たさねばならぬとは、やはり賢者たちの言うことは本当だったのだ」

 カルの巨大な体躯が身震いにうち震えた。「ヴァルカ神よ! それにしてもなんたる運命だ! ブルールよ、わしの話を聞いてくれ」カルの指が、筋骨たくましい鋼のようなブルールの上腕部を掴んだ。「約束してくれ! わしがもし、きゃつら薄汚れた化け物どもによって死に至る深手を負わされたときには、わしの魂が奴らの奴隷になりさがる前に、そなたがその剣で、このわしの胸を貫いてくれると」

「誓うとも」こたえるブルールの双眼は、荒々しい光を帯びている。「おれもまた、同じことを御身に頼みたい、カル王」

 血の誓いが成立したとき、二人は強靭な右手を静かに握りしめあった。

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